世界広布の大道【新・人間革命 第4巻】

小説「新・人間革命」に学ぶ

今回の「世界広布の大動 小説『新・人間革命』に学ぶ」は第4巻の「基礎資料編」。各章のあらすじ等を紹介する。次回の「名場面編」は16日付、「御書編」は23日付、「解説編」は30日付の予定。

第4巻基礎資料

物語の時期
1961年2月14日~10月8日

「春嵐」の章

1961年2月14日にアジア訪問から帰国した山本伸一は、16日に愛知の豊橋市で開催された豊城支部の結成大会を皮切りに、各地の会合に出席していく。3月7日には、関西男女青年部のそれぞれの幹部会へ。さらに翌8日には、関西の3総支部の合同幹部会に臨み、力強く学会歌の指揮を執る。この時、伸一は、権力の魔性との激しい攻防戦のさなかにあった。57年の参議院議員大阪地方区の補欠選挙で、選挙違反の指示したとの事実無根の容疑が掛けられた「大阪事件」の裁判が、大きな山場に差し掛かっていたのである。16日、青年部の第1回音楽祭であいさつに立った伸一は、「我々は、戦おうじゃないか!」との恩師・戸田城聖の言葉を通して指導。この頃、各地で、神社・仏閣はの寄付や行事への参加を拒んだ学会員に対する、村八分などの不当な仕打ちが深刻化していた。伸一は、広宣伸展に合わせて嵐が吹き始めたことを思い、全同志を、いかなる大難にも屈せぬ、強き信仰の人に育て上げなくてはならないと決意する。4月2日、彼は、春嵐の中で行われた戸田の四回忌法要に臨む。

〈1958年11月、山本伸一は青森支部結成の打ち合わせの折、支部長に内定した金木正と、九人の地区部長の内定者を前へ呼んだ〉

「団結」が広布の原動力

一は、その壮年たちに言った。「では、金木さんを真ん中にして、みんなで囲み、肩を組んでください」皆、不可解そうな顔をしながら、金木を囲んで、円陣を組んだ。会場にいた、他の参加者も、何が始まるのかと、目を光らせていた。壮年の一人が確認した。「これで、いいんでしょうか」「はい。結構です。皆さん、どうか、この姿を忘れないでください。これが、今後、青森支部が目ざす団結の姿です。支部長を中心にして、九人の地区部長が、しっかりと肩を組み合う。そうすれば、この輪を、誰も乱すことはできません。しかし、円陣が崩れて、九人の地区部長がバラバラになれば、すぐに攪乱されてしまします。(中略)「地区部長になられる皆さんは、どこまでも支部長を守ってください。また、支部長になられる金木さんは、地区部長のために、支部の全員のためにm尽くしていってください、同志を守れば、自分が守られます。それが仏法の因果の理法です。(中略)これから先、何かあったら、この円陣を思い出して、青森は信心根本に、団結第一で、日本一仲の良い支部をつくってくいってください」(「春嵐」の章、26ページ~27ページ)

「凱旋」の章

戸田の四回忌法要の翌4月3日から、伸一は群馬、新潟、東京、愛知、埼玉、島根、広島での支部結成大会などに相次いで出席。会合の前後には、時間を割いてメンバーの激励に徹した。群馬の高崎では、前年に自作の詩(別掲)を贈って励ました青年たちと再会し、その成長を喜ぶ。さらに、戸田が戦後初の地方指導で訪れた桐生も訪問。ここでは、学会と別の組織をつくり、活動を進めようとしたメンバーが行き詰まり、深い反省の末に学会に入会するエピソードが紹介されている。中部では、岐阜へも足を運び、支部長や居合わせた同志と懇談。島根の松江では、口べたなことに不安を抱えていた支部長へ「声仏事」と認めて贈った。広島の福山では会場に入れなかった友を気遣い、会合終了後に場外に出て、一人一人を励ます。会長就任から1周年。激闘の365日を走り抜いた伸一は、139支部、総世帯数191万余りという、大飛躍の結果をもって、5月3日の本部総会に凱旋を果たす。

黄金の輝き満つ日々

九五○年(昭和二十五年)の秋霜のころであった。行き詰まった戸田の事業の打開の糸口を求めて、ある人を訪ねたが、不調に終わった。活路が、断たれてしまったのである。(中略)帰途、戸田と二人で川の流れに沿って歩いた。空には星が冷たく瞬いていた。夜空は美しかった。しかし、寒さが身に染みた。それは、世間の冷たさでもあった。(中略)伸一は、歩くうちに、靴が脱げそうになった。見ると、靴の紐がほdふぉけていた。その靴も、既にすり減って、穴が開いていた。伸一は、かがんで紐を結び直しながら、何気なく、当時、流行していた「星の流れに・・・こんな女に誰がした」(JASRAC 出 1900392-901)という歌をもじて、「こんな男に誰がした」と口ずさんが。その時、戸田が振り返った。彼の眼鏡がキラリと光った。「俺だよ!」こう言って、戸田は屈託なく笑った。明日をも知れぬ苦境のさなかにありながら、悠然と笑い、”責任は俺だよ”と言う戸田の、大確信にあふれた率直な言葉に、伸一は熱いものを感じた。彼は思った。”師の確信は、いつでの真実を語る。されば弟子も真実で応えねばならない”それは苦闘の時代ではあったが、師弟の道を歩む一日一日は、黄金の輝きに満ちていた。(「凱旋」の章、87~88ページ)

「青葉」の章

本部総会を終えた伸一は、青年部幹部との懇談の席上、この年を「青年の年」にしたいと提案する。彼は、青年部を中心に、新しい広布の流れをつくることを、会長就任2年目のテーマとしていた。九州をはじめ、各地の青年部の方面総会に出席。行く先々で青年たちとの出会いをつくった。京都の舞鶴では、仕事と学会活動の両立に悩む男子部員た対し、「いかなる状態にあっても、必ず、すべてをやりきると決め、一歩も退かない決意をもつことです」と語り、その苦労が全て生涯の財産になることを訴える。伸一は、神戸、兵庫の2支部合同の結成大会で、学会の広布の歩みを収めた記録映画の製作を発表する。彼は、青年部の室長時代から、学会の主要行事(「3.16」の式典など)を、映画フィルムに収めるように推進してきた。伸一は、その製作の責任者に、青年部のリーダーを抜てき。また、第4回学生部総会では、”世界を友情で結びゆけ”と期待を寄せた。6月度の本部幹部会では、この年の目標に掲げていた200万世帯の達成が発表される。

〈61年5月、山本伸一は記録映画の製作を発表する。作業を担当するのは、新設された広報局の飯坂芳夫であった〉

開拓の労苦こそ財産

る夜更けに、伸一が作業室に顔を出した。二人の青年が、黙々と仕事をしていた。会長の伸一がやって来たことさえ気づかなかった。伸一が声をかけると、驚いて、二人が顔を上げた。連日、遅くまで仕事をしているのであろう。その顔には疲労の色が滲んていた。席を立とうとする、二人を制して伸一は言った。「いや、そのままでいいよ。毎日、頑張ってくれて、ありがとう。ところで、今、一番困っていることはなんだい?」飯坂が答えた。「実は、撮影のためのフィルムが底をついてしまったことです。既に、予算は使いきってしまっておりますので・・・・」(中略)伸一は、当面、必要なフィルムの費用を、飯坂に聞くと、自分のポケットマネーをはたいて寄付した。「飯坂君、今は大変だと思うが、開拓には苦労はつきものだよ」(中略)「人手もない、機材もない、時間もないという、ないないづくしのなかで、見事な作品を作り上げることができれば、人生の最大の財産になる。また、それが開拓者だ」(中略)「映画作りは、目立たないし、陰の力であるけれど、その影響力はすごい。家でも、土台というのは見えない。車でも、土台というのは見えない。車でも、、エンジンは人の目には触れない。人間の体にしても、心臓を見ることはできない。ものごとを支えている、本当に大切な力は、いつも陰に隠れているものなんだよ」(「青葉」の章、192~196ページ)

「立正安国」の章

伸一は7月4日、戸田の墓前で深い祈りを捧げる。前日の3日は、16年前に恩師が生きて獄門を出た日である。それはまた、4年前に自身が不当逮捕された日でもあった。彼の胸には「権力の魔性と戦え!民衆を守れ!」との師の言葉がこだまし、「大阪事件」の裁判で、断じて、無罪を勝ち取る決意を固める。9日、方面別の青年部総会の掉尾を飾る東北の総会へ。午後に行われた男子部の総会で、「広宣流布の総仕上げは、東北健児の手で」と訴える。29日、長野県の霧ヶ峰高原での「水滸会」の野外研修では、人類の平和と幸福のために、世界檜舞台に雄飛をと語った。翌日の「華陽会」の野外研修では、バレーボールのパスを通して、心一つに団結する意義を強調する。7月、女子部は部員20万を男子部は30万を突破する。8月の恒例の夏期講習会で、伸一は「立正安国論」を講義する。秋のヨーロッパ訪問を前に、人間と人間を結ぶヒューマニズムの哲学を広め、世界の立正安国の道を開くことを誓う。

〈61年7月、山本伸一は戸田城聖の墓前で、57年7月3日、選挙違反という無実の罪で逮捕された折のことを思い出す〉

弟子を思う師の熱い心

が、決して忘れることができないのは、弟子を思う、熱い、熱い、師の心であった。羽田の空港で、大阪府警に出頭するため、関西に向かう伸一に、戸田はこう語った。「・・・もしも、もしも、お前が死ぬようなことになったら、私もすぐに駆けつけて、お前の上にうつぶして一緒に死ぬからな」伸一は、羽田の空港での戸田の胸中を思うと、感涙に面頭が潤んだ。しかも、戸田が、伸一の拘留中、大阪地検に抗議に来ていたのである。戸田は、七月十二日に東京の蔵前国技館で、伸一を不当逮捕した大阪府警並びに大阪地検を糾弾する東京大会を行なったあと、やむにやまれぬ思いで、大阪にやってきた。(中略)戸田は、可能ならば、伸一に代わって、自分が牢獄に入ることも辞さない覚悟だった。弟子のためには、命を投げ出すことさえ恐れなぬ師であった。彼は検事正に、強い語調で迫った。「なぜ、無実の弟子を、いつもでも牢獄に閉じ込めておくのか!私の逮捕が狙いなら、今すぐ、私を逮捕しなさい」そして、伸一の一刻も早い釈放を求めたのである。(中略)今、戸田の墓前に立つ伸一の胸には、「権力の魔性と戦え!民衆を守れ!」との、師の言葉がこだましていた。(「立正安国」の章、237~238ページ)

「大光」の章

10月5日、伸一はデンマークのコペンハーゲンに欧州訪問の第一歩をしるす。移動の車中、同国復興の父グルントヴィと後継者コルが、広く民衆に高等教育の機会を開いたことを思い、先師・牧口、恩師・戸田の遺志を受け継ぎ、創価教育を実現する学校を設立しなければと、誓いを新たにする。ホテルでは、同国に出張中の男子部のメンバーを激励する。7日、西ドイツ(当時)のデュセルドルフに入った訪問団一行は、ライン川の岸辺で、ナチスのよるユダヤ人迫害を巡って語り合う。翌日、一行は西ベルリン(当時)に赴き、東西ベルリンの境界線付近を視察。自由を奪い、同胞や家族を引き裂く壁を前に、伸一の脳裏には、”人間の生命に潜む魔性の爪をもぎ取れ”との精神が込められた、戸田の「原水爆禁止宣言」が蘇る。美しい夕焼け空の下、分断の象徴でだるブランデンブルク門を仰ぎながら伸一は、「三十年後には、きっと、このベルリンの壁は取り払われているだろう・・・」と、同行の友に言う。それは、世界の平和実現に、生涯を捧げ、殉じようとする、彼の決意の表明にほかならなかった。

〈61年10月8日、ドイツ・ベルリンを訪問した山本伸一は、東西冷戦による分断の象徴である、ブランデンブルク門の前に立つ〉

平和の心を全世界に!

つの間にか、雨はすっかり上がり、空は美しい夕焼けに染まっていた。荘厳な夕映えであった。太陽は深紅に燃え、黄金の光が空を包んでいた。(中略)辺りの塔も、ビルも、そして、閉ざされた道も、ブランデンブルク門も、金色に彩られていた。伸一は思った。”太陽が昇れば、雲は晴れ、すべては黄金の光に包まれ、人類の頭上には、絢爛たる友情の虹がかる・・・”彼は、ブランデンブルク門を仰ぎながら、同行の友に力強い口調で言った。「三十年後には、きっと、このベルリンの壁は取り払われているだろう・・・」伸一は、単に、未来の予測に口にしたのではない。願望を語ったのでもない。それは、やがて、必ず、平和を希求する人間の良心を英知と勇気と英知と勇気が勝利することを、彼が強く確信していたからである。また、世界の平和の実現に、生涯を捧げ、殉じようとする、彼の決意を表明にほかならなかった。一念は大宇宙をも包む。それが仏法の原理である。”戦おう。この壁をなくすために。平和のために。戦いとは触発だ。人間性を呼び覚ます対話だ。そこに、わが生涯をかけよう”伸一は、一人、ブランデンブルク門に向かい、題目を三唱した。「南無妙法蓮華経・・・」深い祈りと誓いを込めた伸一の唱題の声が、ベルリンの夕焼けの空に響いた。 (「大光」の章、363~364ページ)

第4巻御書

御文

御文

福田ふくでんによきたねをくださせたもうか、なみだもとどまらず(御書1596ページ、衆生心身御書)

通解

福田に、すばらしい善根の種を蒔かれたのか。厚い志に涙もとまらない。

小説の場面から

〈会長就任1周年を目前したある日、山本伸一は供養の精神について思索する〉
広宣流布につくすことは、福田に善根の種を蒔くことであるーーそれは、伸一が青春時代から、強く確信してきたことでもあった。彼は、戸田城聖の事業が窮地に追い込まれ、給料の遅配が続くなかで、懸命に広布の指揮を執る戸田を守り、仕えてきた日々を思い起こした。伸一は、広宣流布に一人立った師子を支えることは、学会を守り、広布を実現する道であると自覚していた。彼は、自分の生活費は極限まで切り詰め、給料は、少しでも、広布のため、学会のために使うことを信条としてきた。それは伸一の喜びであり、密かな誇りでもあった。そのために、オーバーのない冬を過ごしたこともあった。

信心の至誠

ようやく出た給料の一部を、戸田の広布の活動のために役立ててもらったこともあった。そして、その功徳と福運によって、病苦も乗り越え、今、こうして、会長として悠々と指揮を執れる境涯になれたことを、伸一は強く実感していた。彼は人に命じられて、そう行動してきたわけではない。それは、自らの意志によって、喜び勇んでなした行為であった。また、広宣流布のために生涯を捧げようと決めた伸一の、信心の至誠にほかならなかった。(「凱旋」の章、136~137ページ)

御文

すべから一身いっしん安堵あんどを思わば四表しひょう静謐せいひついのらん者か(御書31ページ、立正安国論)

通解

一身の安泰を願うなら、まず世の静穏、平和を祈るべきである。

小説の場面から

〈1961年8月の夏期講習会で、伸一は「立正安国論」を講義する〉
「ここには、仏法者の姿勢が明確に示されている。自分の安らぎのみを願って、自己の世界にこもるのではなく、人びとの苦悩を解決し、社会の繁栄と平和を築くことを祈っていってこそ、人間の道であり、真の宗教者といえます。社会を離れて、仏法はない。宗教が社会から遊離して、ただ来世の安穏だけを願うなら、それは、既に死せる宗教です。本当の意味での人間のための宗教ではありません。ところが、日本にあっては、それが宗教であるかのような認識がある。宗教が権力によって、骨抜きにされてきたからです」(中略)

仏法者の使命

「社会の安穏を願い、周囲の人びとを思いやる心は、必然的に、社会建設への自覚を促し、行動となっていかざるを得ない。創価学会の目的は、この『立正安国論』にしめされているように、平和な社会の実現にあります。この地上から、戦争を、貧困を、餓鬼を、病苦を、差別を、あらゆる”悲惨”のニ字を根絶していくことが、私たちの使命です。そこで、大事なたってくるのが、そのために、現実に何をするかである。実践がなければ、すべては夢物語であり、観念です」(「立正安国」の章、288~289ページ)

立正安国の精神を胸に

ここにフォーカス『新・人間革命』第4巻「立正安国」の章では、山本伸一が「立正安国論」を講義する場面が描かれています。「立正」とは「正を立てる」、つまり正法の流布であり、生命の尊厳という哲理を、人々の胸中に確立し、社会の基本原理としていくことです。「安国」は、「国を安んずる」こと。その意味は、社会の繁栄と平和を実現することです。日蓮大聖人直筆の「立正安国論」には、「くに」を表現する際に、「国構え(口)に」「民」と書く「民」という字が多く用いられています。そこには、「安国」といっても、民衆一人一人の幸福を離れて社会の繁栄はない。という大聖人の国家観が表れています。 「立正安国論」は、世の中の惨状を嘆く客と、主人との対話形式で執筆されています。それは、日蓮仏法が「対話の宗教」であることを示しています。中国・冰心ひょうしん文学館の王炳恨おうへいこん前館長は、「池田会長が提唱し、自ら実践しておられる『対話の姿勢』と『対話の精神』は、さまざまな紛争を解決し、調和の世界を構築する”宝の道”でありましょう」と述べられています。立正安国の精神を胸に、私たちが日々、繰り広げている「一対一の対話」は、地味で、目立つことのない労作業かもしれません。しかし、この「対話の道」こそ、崩れない平和を築く”宝の道”なのです。

第4巻解説

紙面講座池田主任副会長


第4巻では、山本伸一が創価学会の第3代会長に就任した翌年となる1961年(昭和36年)の模様が描かれています。学会はこの年6月、年間目標であった200万世帯を達成。まさに旭日の勢いで、広布大きく伸展した時でした。その一方で忘れたはならないことが二つあります。一つ目は、「大阪事件」の裁判が山場を迎えていたことです。57年(同32年)7月3日、伸一は事実無根の選挙違反の容疑で逮捕され、同年10月から裁判が始まりました。ところが、弁護士から「有罪は覚悟していただきたい」(40ページ)と言われるほど、裁判は厳しい状況でした。こうした中で、伸一は広布の指揮を執っていたのです。もう一つが「村八分事件」です。「春嵐」の章では、当時、各地で起きていた学会員への不当な村八分について描かれています。事件の原因はいずれも、学会員が神社への行事の参加や寄付を拒否した、というものでした。しかし、その本質は、学会の布教によって、寺院や神社の関係者が、自身の立場を脅かされるのではなか、という”恐れ”を抱いたことに起因するものでした。村八分事件の報告を受けた伸一は、「長い人生から見れば、そんなことは一瞬です。むしろ、信心の最高の思い出になります」(71ページ)と語ります。その真意は「同志にとって大切なことは、何があっても、決して退くことのない、不屈の信心に立つことである。そこにこそ、永遠に、栄光の道があるからだ」(同)との思いからでした。襲い掛かってきた大難を、”強き信仰の人に育てていくためのステップ”として捉えていたのです。私たちは「不屈の信心」を心に刻み、前進したいと思います。

映像制作の原点

第4巻の「凱旋」の章では、供養の精神について記されています。見返りを求めず、法のために喜んで財物を施す行為を、「喜捨」といいます。この「喜捨」について、須達長者のエピソードを通して、「純真な信仰からうまれた、この喜捨の心こそ、まことの供養であり、そこに偉大なる福徳の源泉がある」(131ページ)、そして「喜捨の心は、境涯を高め、無量の功徳をもたらし、それがまた、信心の確信を深める。そこに、幸福の軌道を確立する、仏法の方程式がある」(133ページ)と記されています。当時、多くの同志は経済苦や病苦と格闘していました。会館の建設などを進める段階にきていましたが、供養を呼び掛けることに、伸一はためらいを覚えます。しかし、彼は御書を紐いて思索を重ね、供養の門戸を全同志に開くことを決断します。そして、こう誓います。「たとえ、今は貧しくとも、未来は必ずや大長者となることは間違いない。また、断じてそさせていくのだ。私は、仏を敬うように、励ましていかねばならない」(138ページ)この一文に、学会同志の供養に対する池田先生の心が表れているのではないでしょうか。この「心」に、学会の供養の原点があります。また「青葉」の章には、学会の映像制作について書かれています。伸一は、映像の可能性に着目し、記録映画の製作を提言します。そして担当者に対して、「近いうちに、総天然色(カラー)のニュース映画も作っていこう」「将来は、同志の体験談をもとにした劇映画やドキュメンタリーも作るようにしよう」(196ページ)と、未来への構想を語っています。これは、現在の学会の映像配信サービス「SOKAチャンネルVOD(ビデオ・オン・デマンド)」の原形ともいえます。この時の伸一の英断が、映像視聴を通した現在の学会の運動へとつながっていったのです。

人材育成の姿勢

伸一は会長就任2年目のテーマとして青年部の育成を掲げました。「青葉」の章では、青年が成長する要件を挙げています。ここでは3点述べたいと。1点目は、自身の使命を自覚することです。伸一は一部員であった頃から、戸田先生の構想を実現するために、学会の全責任を持とうとしてきました。「弟子として、師の心をわが心とし、学会のいっさいを自己の責任として考えてきた」「この見えざる無形の一念こそが、成長の種子といってよい」(156ページ)と書かれています。2点目は、師匠を定めることです。同章で、九州男子部のリーダーの姿を通して、こう記されています。「彼の行動は、師と仰ぐ伸一を基準にし、伸一の側に立って物事を考えていた」(162ページ)。”師と共に”との一念が成長の原動力となるのです。3点目は、両立に挑むということです。同章で、伸一は仕事と学会活動の両立に悩む青年に、「青年時代に、仕事も、学会活動もやりきったといえる戦いをすべきです。それが人生の基盤になるからです。」(169ページ)と語ります。祈りを根本に、全てをやり切ると決めていくことか、勝利は開かれることを教えています。こうした青年の成長の要件とともに、第4巻では「青年を育成する側」の姿勢についても言及しています。たとえば、「立正安国論」の章では、伸一が青年に触発を与え続けるために心掛けていたことが記されています。第1は「自分が、自身の原点であり、規範である師の戸田を、永遠に見失わないこと」(243ページ)。第二は「求道と挑戦の心を忘れることなく、自己教育に徹し、常に自分を磨き、高め、成長させていく」(同)。第三に「私心を捨て、人類の幸福のために生き抜く自らの姿を通して、青年の魂を触発していこう」(同)ということです。この心を、人材育成に携わる私たちも受け継いでいきたいと思います。

「青葉」の章では、61年6月に急逝した九州の婦人部長のことが紹介されています。彼女にはヨーロッパで仏法を弘めたいという夢がありました。伸一は同年10月、初の欧州指導の際、その子どもたちに絵皿の土産を買いました。その折、同行の友に、こう語っています。「皆、ともすれば、亡くなった人のことは、忘れてしまう。しかし、私は、一緒に戦い、苦労を分かち合ってくれた同志のことを、決して、忘れるわけにはいかないんだ。しかも、後に残された家族がいれば、なおさらだよ。私は、そした家族を、生涯、見守って行きたいと思っている」(318ページ)と。学会は”真心の励ましの世界”です。この先生の思いを胸に、希望の連帯を広げていこうではありませんか。

名言集

礼儀正しい行動

仏法は最高の道理であります。その仏法を信奉する私たちは、常に、礼儀正しい行動を心がけていかなくてはなりません。(「春嵐」の章、8ページ)

未来を開く一念

青年にとって大事なことは、どういう立場、どういう境遇にあろうが、自らを卑下しないことです。何があっても、楽しみながら、自身の無限の可能性を開いていくのが信心がからです。もし、自分なんかだめなんだと思えば、その瞬間から、自身の可能性を、自ら摘み取ってしますことになる。未来をどう開くかの鍵は、すべて、現在のわが一念にある。「凱旋」の章、81ページ)

寸暇を見つけて祈る

苦しいな、辛いなと思ったら。寸暇を見つけて祈ることです。祈れば、挑戦の力が湧いてくるし、必ず事態を開く事ができます。そして、やがては、自由自在に、広宣流布のため、活動に励める境涯になっていきます。(「青葉」の章、171ページ)

組織の建設は心遣いに

見事な組織をつくっていくといっても、人間としての思いやりであり、心遣いがすべてだ。そこに人は心を打たれ、頑張ろうという気持ちにもなる。(「立正安国国」の章、262ペー ジ)

戦う時は「今」

人生は長いようで短い。ましてや、青年時代は、あっという間に過ぎていってしまう。今、学会は、未来に向かって、大飛躍をしようとしている。広宣流布の大闘争の「時」が来ているんだ。時は「今」だよ。(「大光」の章、316ページ)