世界広布の大道【新・人間革命 第20巻】

小説「新・人間革命」に学ぶ

今回の「世界広布の大道 小説『新・人間革命』に学ぶ」は第20巻の「基礎資料編」。各章のあらすじ等を紹介する。次回の「名場面編」は13日付、「御書編」は15日付、「解説編」は9日付の予定。

第20巻基礎資料

物語の時期
1974年(昭和49年)5月30日~75年1月23日

「友誼の道」の章

1974年(昭和49年)5月30日、山本伸一は、中日友好協会の招請で初訪中する。彼は、68年(同43年)9月に「日中国交正常化提言」を発表するなど、両国の関係改善に奮闘。72年(同47年)9月には日中国交正常化が実現する。英国領・香港の羅湖駅から徒歩で、中国の深圳駅へ。そして、広州、北京へと向かう。北京滞在中、故宮博物院等の視察や、中日友好協会の廖承志会長らとの懇談、児童節(こどもの日)の催しなどに参加。市内の中学校を視察した折、生徒たちがソ連(当時)の攻撃に備え、校庭に避難壕を建設している姿に胸を痛める。また、北京大学を訪れ、図書贈呈の目録を手渡し、創価大学との交流の原点を築く。6月6日には、李先念副総理との会見に臨み、中国は強く平和を求めていることを確信する。7日、訪中団は、北京を発ち、西安、鄭州と回り、10日、上海に到着。翌11日夜には、上海から杭州へ。伸一は行く先々で民衆の中へ飛び込むようにして対話し、「友誼の道」を開いていく。上海に戻った一行は13日夜、答礼宴を行う。学生部長の田原薫と、日本を訪れた中国の青年が再会を喜び合う姿に、伸一は“日中提言”の時に思い描いた夢が実現しつつあることを感じる。14日、上海を発って広州へと向かい、翌15日、深圳から再び徒歩で香港へ。“中ソの戦争は絶対に回避しなければならない。さあ、次はソ連だ!”――伸一は、平和への闘魂を燃やす。

〈1974年(昭和49年)5月、山本伸一の初訪中が実現。一行は、英国領・香港の羅湖駅から徒歩で中国の深圳駅へ向かう〉

負けないことが勝つこと

一と峯子は、笑顔で言葉を交わしていたが、あとのメンバーの表情は暗く、皆、押し黙っていた。共産主義の国・中国を初訪問するとあって、緊張しているのである。(中略)伸一は、笑いながら皆に言った。「もっと嬉しそうな顔をしようよ。私たちは、これから新しい友人に会いに行くんじゃないか。どこの国の人も、みんな同じ人間だ。誠実に、ありのままに接していけばいいんだ。話し合えば必ず心は通じ合えるし、わかり合えるものだよ」(中略)飛行機の格納庫のような鉄橋を渡ると、カーキ色の軍服を着た、人民解放軍の兵士がいた。兵士にパスポートを見せる――。いよいよ山本伸一は、中国・深圳への第一歩を踏みしめたのだ。時計の針は、午前十一時五十分を指していた。「こんにちは!」日本語が響き、一人の男性と、二人の女性が、小走りで近寄ってきた。男性と女性の一人は中日友好協会のメンバーで、もう一人の女性は広州市の関係者であった。(中略)中日友好協会の男性は葉啓滽、女性は殷蓮玉であった。葉は、流暢な日本語で語った。「ようこそ中国においでくださいました。私たちは皆さんのご案内をさせていただくために、北京からまいりました」深圳駅の控室で和やかな懇談が始まった。(中略)葉は、伸一の著書である小説『人間革命』を熟読していた。(中略)また殷は「小説『人間革命』のテーマを知っています」と言って、「一人の人間における偉大な人間革命は……」と、すらすら暗唱してみせた。「すごい! 作者の私でも覚えていないんですよ」伸一のユーモアに、笑いが広がった。伸一と青年たちとの触れ合いを目の当たりにして、同行のメンバーがいだいていた中国への“怖い”というような印象は、一瞬にして吹き飛んでしまったようだ。(「友誼の道」の章、23~26ページ)

「懸け橋」の章

9月8日、山本伸一の一行は、モスクワ大学の招待でソ連を初訪問。同大学のホフロフ総長らと歓談する。翌日、モスクワ大学を訪れ、総長と大学教育の在り方を巡り、意見を交換。午後には、民間外交機構である対文連の本部でポポワ議長と交流する。10日、高等中等専門教育省のエリューチン大臣、ソ連最高会議のルベン民族会議議長と語り合う。さらに、11日には、小・中学校の授業を参観したあと、ソ連科学アカデミーで副総裁と会談し、東洋哲学研究所との学術交流の道を開く。伸一は13日、レニングラードのピスカリョフ墓地などを訪問。第2次世界大戦の犠牲者を弔うとともに、“この悲惨な事実を世界に発信せねば”と、不戦への決意を燃やす。モスクワに戻った伸一は16日、創価大学とモスクワ大学の学術交流の議定書の調印式に臨む。その後、ノーベル賞作家ショーロホフのアパートを訪問し、人間の運命などについて語らいが弾む。訪ソ最後の日、クレムリンでコスイギン首相と会見。伸一は、中国の首脳が、他国侵攻の考えはないと語っていたことを伝え、「ソ連は中国を攻めますか」と率直に尋ねる。首相は「ソ連は中国を攻めないと、伝えてくださって結構です」と言明する。伸一の手で、中ソ対立の溝に一つの橋が架けられようとしていた。会見に続いて、日ソ交流促進への意思を明らかにするため、対文連と共同コミュニケ(声明書)を発表し、一行は、帰国の途に就いた。

〈山本伸一は、9月にはソ連を初訪問。コスイギン首相との会見では、第2次世界大戦での、ソ連の人々の過酷な体験に言及したあと、中国への対応について尋ねる〉

中ソの平和の懸け橋に

一は尋ねた。「閣下は、あの第二次大戦の時は、どちらにいらしたのでしょうか」首相は静かに答えた。「レニングラードがナチス・ドイツに包囲されていた、あの時、私もレニングラードにいました……」そう言ったきり、しばらく沈黙が続いた。当時のことを思い返しているようでもあった。戦争の悲惨さを知るならば、断じて、その歴史を繰り返してはならぬ。(中略)コスイギン首相の目には、平和建設の決意が燃えていた。伸一は、首相を凝視しながら、強い語調で訴えた。「ソ連の人びとと同様に、中国の人びとも、平和を熱願しております」(中略)語らいは、まさに佳境に入ろうとしていた。(中略)伸一は、三カ月前に中国を訪問した実感を、コスイギン首相に伝えた。「中国の首脳は、自分たちから他国を攻めることは絶対にないと言明しておりました。しかし、ソ連が攻めてくるのではないかと、防空壕まで掘って攻撃に備えています。中国はソ連の出方を見ています。率直にお伺いしますが、ソ連は中国を攻めますか」首相は鋭い眼光で伸一を見すえた。その額には汗が浮かんでいた。そして、意を決したように言った。「いいえ、ソ連は中国を攻撃するつもりはありません。アジアの集団安全保障のうえでも、中国を孤立化させようとは考えていません」「そうですか。それをそのまま、中国の首脳部に伝えてもいいですか」コスイギン首相は、一瞬、沈黙した。それから、きっぱりとした口調で、伸一に言った。「どうぞ、ソ連は中国を攻めないと、伝えてくださって結構です」伸一は、笑みを浮かべて首相を見た。「それでしたら、ソ連は中国と、仲良くすればいいではないですか」首相は、一瞬、答えに窮した顔をしたが、すぐに微笑を浮かべた。心と心の共鳴が笑顔の花を咲かせた。 (「凱歌」の章、157~159ページ)

「信義の絆」の章

山本伸一は、12月2日、北京大学の招待で再び中国を訪問する。北京に到着した伸一は、中日友好協会の廖承志会長に、コスイギン首相との会見内容を伝える。その夜、北京大学主催の歓迎宴に出席。翌日は、同大学への図書贈呈式に臨む。4日、伸一は、中日友好協会を訪問。5日、人民大会堂で鄧小平副総理と会談し、中国の婦人や青年リーダーの訪日、シルクロードの共同学術研究等を提案する。この夜、帰国を前にしての答礼宴の折、伸一に周総理からの会見の意向が伝えられる。療養中だった総理の病状を案じる伸一は丁重に辞退するが、会見は総理の強い意志であることを知り、会見会場へと向かう。総理は、伸一の中日友好への取り組みを高く評価し、中日平和友好条約の早期締結を切望。未来を託すかのような総理の言葉を、伸一は、遺言を聞く思いで心に刻む。語らいは平和への永遠の契りとなり、「信義の絆」となる。1975年(昭和50年)1月、訪米した伸一は、10日、国連事務総長と会談。その際、青年部が集めた戦争の絶滅と核廃絶の署名簿を手渡す。13日には、キッシンジャー国務長官と会談する。中東和平への提言を記した書簡を手渡し、長官は提言を大統領に伝えることを約束する。その後、渡米していた大平正芳蔵相に日中平和友好条約の早期締結を訴える。伸一は、第1回「世界平和会議」が開催されるグアムへ。平和の新章節の幕が開かれようとしていた。

〈12月、第2次中国訪問の帰国前夜、山本伸一は、入院中の周恩来総理から会見の要望を受ける。病状は重く、医師団は会見に反対したが、総理の強い希望で実現に至った〉

永遠なる「信義の絆」結ぶ

 総理は、中国と日本の友好交流に対する、伸一のこれまでの取り組みを、高く評価していた。「山本先生は、中日両国人民の友好関係は、どんなことがあっても発展させなければならないと、訴えてこられた。私としても、非常に嬉しいことです。中日友好は私たちの共通の願望です。共に努力していきましょう」(中略)総理は、彼方を見るように目を細め、懐かしそうに語った。「五十数年前、私は、桜の咲くころに日本を発ちました」(中略)「そうですか。ぜひ、また、桜の咲くころに日本へ来てください」しかし、総理は寂しそうに微笑んだ。「願望はありますが、実現は無理でしょう」伸一は胸が痛んだ。(中略)「周総理には、いつまでもお元気でいていただかなくてはなりません。中国は、世界平和の中軸となる国です。そのお国のためにも、八億の人民のためにも……」すると総理は、力を振り絞るようにして語り始めた。(中略)「二十世紀の最後の二十五年間は、世界にとって最も大事な時期です。全世界の人びとが、お互いに平等な立場で助け合い、努力することが必要です」「まさに、その通りだと思います」伸一は、遺言を聞く思いであった。会見は、三十分に及ぼうとしていた。伸一は、周総理といつまでも話し合っていたかった。しかし、もうこれ以上、時間を延ばしてはならないと思った。彼は、「総理のご意思は、必ず、しかるべきところにお伝えします。お会いくださったことに、心より御礼、感謝申し上げます」と言って、会見を切り上げた。(中略)周総理と伸一は、これが最初で最後の、生涯でただ一度だけの語らいとなった。しかし、その友情は永遠の契りとなり、信義の絆となった。総理の心は伸一の胸に、注ぎ込まれたのである。(「信義の絆」の章、341~345ページ)

〈1975年(昭和50年)1月、アメリカを訪問した山本伸一は、キッシンジャー国務長官と会談した〉

私は「人類に味方します」

 一が現下の国際情勢について話を切り出すと、長官の目が光った。伸一は、キッシンジャーが一九六九年(昭和四十四年)の一月にニクソン大統領の補佐官となって以来、その奮闘に目を見張ってきた。(中略)一九七三年(昭和四十八年)には、ベトナム和平協定を推進したことが高く評価され、ノーベル平和賞を受賞している。(中略)山本伸一は、そのキッシンジャー国務長官と、世界の平和のために、存分に語り合い、人類の進むべき新たな道を探り出したかったのである。長官は、形式的な礼儀作法などにはこだわらない、合理的で、飾らない人柄であった。そして、決して急所を外さず、鋭い分析力をもっていた。いたって話は早かった。伸一が、日中平和友好条約についての見解を尋ねると、即座に「賛成です。結ぶべきです」との答えが返ってきた。語らいのなかで長官は、伸一に尋ねた。「率直にお伺いしますが、あなたたちは、世界のどこの勢力を支持しようとお考えですか」伸一が、中国、ソ連と回り、首脳と会談し、さらに、アメリカの国務長官である自分と会談していることから出た質問であったにちがいない。伸一は、言下に答えた。「私たちは、東西両陣営のいずれかにくみするものではありません。中国に味方するわけでも、ソ連に味方するわけでも、アメリカに味方するわけでもありません。私たちは、平和勢力です。人類に味方します」それが、人間主義ということであり、伸一の立場であった。また、創価学会の根本的な在り方であった。キッシンジャーの顔に微笑が浮かんだ。伸一のこの信念を、理解してくれたようだ。会談では、中東問題、米ソ・米中関係、SALT(戦略兵器制限交渉)などがテーマになっていった。平和の道をいかに開くか――二人の心と心は共鳴音を響かせながら、対話は進んだ。(「信義の絆」の章、377~381ページ)

第20巻御書

御文

御文

彼等かれら人人ひとびと智慧ちえ内心ないしん には仏法の智慧をさしはさみたりしなり(御書1466ページ、減劫げんこう御書)

通解

民衆みんしゅうすくった彼ら(仏教以外の教えを実践する人々)の智慧は、その内心においては、仏法の智慧をふく み持っていたのです。

小説の場面から

〈1974年(昭和49年)9月16日、山本伸一は、ノーベル賞作家のショーロホフ氏と会見。「人間の運命」について語らいを交わす〉伸一は、『人間の運命』の内容を踏まえて、ショーロホフに質問した。「人間の運命を変えることは、一面、環境等によっても可能であるかもしれません。しかし、運命の変革を突き詰めて考えていくならば、どうしても自己自身の変革の問題と関連してくると思います。この点はどのようにお考えでしょうか」ショーロホフは、大きく頷いた。(中略)「われわれは、皆が“幸福の鍛冶屋”です。幸福になるために、精神をどれだけ鍛え抜いていくかです」(中略)伸一は、身を乗り出して言った。「まったく同感です。たとえ、どんなに過酷な運命であっても、それに負けない最高の自己をつくる道を教えているのが仏法なんです」(中略)

人間は皆、“幸福の鍛冶屋”

ショーロホフは、目をしばたたき、盛んに頷きながら、伸一の話に耳を傾けていた。彼は、社会主義国ソ連を代表する文豪である。しかし、人間が根本であり、精神革命こそが一切の最重要事であるという点では、意見は完全に一致し、強く共鳴し合ったのである。人生の達人の哲学、生き方は、根本において必ず仏法に合致している。いな、彼らは、その底流において、仏法を渇仰しているのだ。(「懸け橋」の章、259~261ページ)

御文

陰徳いんとくあれば陽報ようほうあり(御書1360ページ、陰徳陽報いんとくようほう御書)

通解

陰徳いんとくがあるならば、陽報みながある。

小説の場面から

山本伸一の第1次訪ソの最終日、モスクワ大学の主催で、歓送のパーティーが開かれた。伸一は、同大学の学生たちに感謝の意を伝える〉学生たちは、滞在中、ホテルで一行と寝食を共にし、荷物の運搬や道案内、車や食事の手配を行うなど、さまざまな面で支えてくれたのである。伸一は、彼らを心からねぎらい、御礼を言いたかった。(中略)学生たちは、将来は日ソの友好を担って立つ俊英である。伸一は彼らを、「若き友人」と思っていた。(中略)彼らは、伸一の訪ソの成功を、わが事のように喜び、コスイギン首相との会談のあとも、こう語っていた。「山本先生は、ソ日友好の歴史に残る偉大な仕事をされたと思います。そのお手伝いができたことは、私たちの誇りです」会食のはじめに、伸一は立ち上がると、丁重に御礼を述べた。

陰の善行は明確な善の報いに

 「この訪問で、日ソ友好の新しい橋を架けることができました。それを陰で支えてくださった、最大の功労者は皆さんです。私は、心から御礼、感謝申し上げます。ありがとうございました。東洋の英知の言葉は、『陰徳あれば陽報あり』(御書一一七八ページ)と教えています。人に知られない善行であっても、明らかな善き報いとなって自らにかえってくるということです。これは人間が生きるうえでの大事な哲学です」皆、笑顔で頷いた。 (「懸け橋」の章、290~291ページ)

地球人類という普遍の連帯

ここにフォーカス1975年(昭和50年)1月10日、国連事務総長との会談を終えた山本伸一は、同日、日本協会の歓迎レセプションでスピーチ。新しき時代を開く哲学について語ります。伸一は、核兵器や公害など、現代社会が抱える問題の本質を、「欲望とエゴに突き動かされ、自己をコントロールしえない『人間』そのものの問題」と指摘します。そして、人類が目指す新しい方向について、①人類がもたなければならない価値観とは、全地球的な視野に立ったもの②人間は生命的存在であるという認識に立つこと――と論じます。この二つの視点に立脚して、「地球人類という普遍の連帯をもつ」ことを訴えます。現実は国家のエゴが渦巻き、人類の「普遍の連帯」を築くことは至難です。しかし、伸一は「あえて、このインポッシブル・ドリーム(見果てぬ夢)を、私の生ある限り追い求めていきたい」と、参加者の前で宣言します。池田先生は、日本と中国の間に友好の「金の橋」を架け、ソ連とも文化・教育交流の大道を切り開いてきました。あらゆる差異を超え、不信と対立を、信頼と友情による連帯へと転換してきたのです。人類が現在のコロナ禍を乗り越えるには、国家や民族を超えた協力が不可欠です。「地球人類という普遍の連帯をもつ」という視座は、さらに重要性を増しています。

第20巻解説

紙面講座池田主任副会長


池田先生の初の訪中・訪ソ、そして、第2次訪中は、1974年(昭和49年)のわずか半年の間に行われました。その激闘が第20巻で描かれます。同巻のテーマの一つが、宗教否定のマルクス・レーニン主義を基調とする中国、ソ連と、日蓮仏法を基調とする創価学会の対話が、なぜ実現できたかということです。当時の世界情勢は、複雑な様相を呈していました。第2次世界大戦後の米ソの冷戦構造が続く中で、社会主義国同士である中ソも、路線の違いから対立していたのです。その中で、68年(同43年)、山本伸一はいち早く、「日中国交正常化提言」を発表します。日中の友好が「アジアのなかにある東西の対立を緩和することになる」(11ページ)、「それは、やがては東西対立そのものを解消するにいたる」12ページ)との強い思いからでした。彼は、提言を発表したことで非難を浴び、宗教者がなぜ“赤いネクタイ”をするのか、との批判もありました。しかし、伸一は覚悟していました。「命を捨てる覚悟なくしては、平和のための、本当の戦いなど起こせない」(同ページ)――日中友好への行動は、まさに命懸けの“戦い”であったのです。中ソの指導者は、そうした伸一の“本気”の平和行動と、創価学会の存在に着目していました。中ソへの訪問が具体化したのは、どちらも73年(同48年)12月です。そして、翌年、伸一の訪中・訪ソが実現します。「分断され、敵対し合う世界を、融合へ、平和へと向かわせる、第一歩にしよう」(156ページ)――伸一の訪問の目的は、社会主義の国で布教することでも、政治交渉のためでもありません。仏法者として、国益やイデオロギーで分断する世界を、連帯へと導くことが第一義でした。「社会の制度やイデオロギーは異なっていようが、そこにいるのは同じ人間である」(64ページ)、「人間に会いに私は行くのです」(167ページ)、「人間の心と心に橋を架け、結ぶために行く」(168ページ)との伸一の信念が、中ソ和平の対話へと突き動かしたのです。

壁の向こう側

74年(同49年)5月、初訪中に出発する際、伸一は「対立する中ソの懸け橋となるのだ!」(166ページ)と自身に言い聞かせました。その決意は、実際に中ソの人々と触れ合う中で、強固なものになっていきます。北京の中学校を訪れた折、彼は、ソ連からの攻撃に備え、生徒たちが地下教室を造る光景を目の当たりにします。第2次世界大戦下の日本で、あちこちで防空壕が掘られたことと重ね合わせ、こうした現実を変えねばならないと深く心に誓います。9月の初訪ソの時には、レニングラード(現・サンクトペテルブルク)の墓地を訪れ、戦争への怒りを強い口調で語ります。伸一が寄り添ったのは、民衆の苦しみでした。民衆と同苦しながら、周恩来総理をはじめとする中ソの指導者や、教育者、文化人、青少年など、あらゆる立場の人々と語り合いました。社会体制の壁を超え、「共鳴の和音」(64ページ)が、中国・ソ連の大地に奏でられたのです。第1次訪中の折、伸一は、「中国が他国を侵略することは、絶対にありません」59ページ)との発言を聞きます。ソ連のコスイギン首相との会見では、中国訪問の実感を率直に伝え、首相から「中国を攻撃するつもりはありません」「(中国の首脳に)伝えてくださって結構です」(278ページ)との言葉を引き出しました。12月の第2次訪中では、鄧小平副総理など中国の首脳に直接、ソ連の意向を伝えます。伸一は、まさに中ソの“懸け橋”となりました。「懸け橋」の章には、「勇気をもって真実を語ってこそ、心の扉は開かれ、魂の光が差し込む。それが、信頼の苗を育んでいくのだ」(211ページ)と記されています。伸一の、率直にして誠実な対話が、心の扉を開き、信頼を結んだのです。佐藤優氏は、週刊誌「AERA」(6月22日号)で連載されている「池田大作研究」で、先生の対話行動に言及しています。「壁に突き当たった場合、政治革命家はその壁を壊そうとする。これに対して池田は、壁の向こう側の人に対話を呼びかける。対話によって、壁の向こう側にいる立場が異なる者の中に理解者を作ろうとする」どんなに立場が異なろうと、「人間主義」「平和主義」の連帯を築いてきたのが、池田先生です。対話には、「壁」も「限界」もないのです。

忍耐強い作業

伸一の願いに反して、初訪中・訪ソの後、中ソ対立は悪化の一途をたどってしまいます。彼の対話は、すぐに花開いたわけではありません。しかし、伸一は決して諦めませんでした。20世紀を代表するイギリスの歴史学者トインビー博士から、次のように託されていたのです。「米ソも、中ソも対立していますが、あなたが、ロシア人とも、アメリカ人とも、中国人とも対話を重ねていけば、それが契機になって、やがてはロシア人とアメリカ人、ロシア人と中国人などの対話へと、発展していくでしょう」(第16巻「対話」の章、216ページ)伸一は、初訪中・訪ソの後も、中ソ両国の指導者と対話を重ねました。中国側から、ソ連を訪問することで中日の友情に支障をきたすと、苦言を呈されたこともありました。それでも、「私は中国を愛してます。中国は大事です。同時に人間を愛します。人類全体が大事なんです」(351ページ)と訴え、「あらゆる人の『仏性』を信じて、人類の平和を願う心を確信して語りかけ続けた」(352ページ)のです。ようやく春が訪れたのは、伸一が、中ソの“懸け橋”として対話を開始してから15年後のことでした。89年(平成元年)5月、ソ連のゴルバチョフ書記長が、鄧小平氏と会談し、遂に中ソ関係が正常化されたのです。伸一は、誰よりも喜びました。花はすぐ開くとは限りません。しかし、鉄のごとき強い信念を持ち続けながら、諦めずに行動すれば、必ず開花します。「大業とは、目立たぬ、忍耐強い作業の繰り返しによって、成就されるもの」(357ページ)なのです。「信義の絆」の章に、「人類の幸福と世界の平和の実現が、広宣流布だ。私は仏法者として、そのために走り抜く」(354ページ)とあります。私たちも、仏法者の使命に燃え、「平和の道」を広げていこうではありませんか。

名言集

仏法者の在り方

人民のため、社会のために身を挺して戦う――それが菩薩であり、仏です。仏法者の在り方です。その行動のない仏教は、まやかしです。(「友誼の道」の章、74ページ)

普遍の鉄則

人間の生命を大切にし、人間を守るということ――それは、人類が生きていくうえの普遍の鉄則です。(「友誼の道」の章、120ページ)

幅広い交流

国家による政治や経済次元の交流は、利害の対立によって分断されてしまうことが少なくない。だからこそ、平和と友好のためには、民間による、文化、教育、学術などの幅広い交流が不可欠である。(「懸け橋」の章、157ページ)

民衆こそ王

万人に「仏」の生命をみる仏法は、本来、民衆を王ととらえる思想でもある。民衆が本当の主権者となり、幸福を享受できる社会の建設が、われらの広宣流布なのだ。(「懸け橋」の章、204ページ)

歴史の必然

地球は一つである。人類も一つである。人間同士、手を取り合うことは歴史の必然である。(「懸け橋」の章、238ページ)

人間を結ぶ絆

「誠実」への共感に国境はない。「誠実」こそが、人間を結ぶ心の絆となるのである。(「信義の絆」の章、318ページ)