世界広布の大道【新・人間革命 第15巻】

小説「新・人間革命」に学ぶ

今回の「世界広布の大道 小説『新・人間革命』に学ぶ」は第15巻の「基礎資料編」。各章のあらすじ等を紹介する。次回の「名場面編」は15日付、「御書編」は22日付、「解説編」は29日付の予定。

第15巻基礎資料

物語の時期
1970年(昭和45年)5月3日~1971年8月

「蘇生」の章

1970年(昭和45年)、創価学会は、仏法の人間主義を根底とした社会建設への取り組みを本格化した。山本伸一は、の精神のを、便利さや豊かさのみを追求するの”歪み”を痛感していた。その最も象徴的な事例が、公害問題の深刻化である。彼は、月刊誌などで、公害問題の本質や対策について論及し、仏法の生命哲理の視点から公害根絶を訴える。公害にられてきた熊本のでも、53年(同28年)ごろから、学会員が。友のを願い、力強く生きる同志の姿は、地域の希望の存在となっていった。74年(同49年)1月、伸一は第1回「水俣友の集い」に出席し、皆が「水俣の変革の原動力」となって、「郷土の蘇生の歴史を」と励ます。また、70年から翌年のにかけて、各地で文化・芸術のさまざまな催しが行われる。伸一も、創価の大文化運動の先駆けたらんと、「青年の譜」など、詩歌を次々に発表していく。学会として「文化の年」と定めた71年(同46年)が開幕すると、彼は2月、北海道で初の”雪の文化祭”に出席する。雪像のや、ゲレンデでのマスゲームなど、新しき庶民文化の祭典を実現した友を、心からたたえた。

〈1974年(昭和49年)1月、山本伸一は九州へ。公害に苦しみながらも頑張り抜いてきた水俣の友を、鹿児島の九州総合研究所(当時)に招き、全力で励ます〉

勝利を祝す万歳の合唱

一は、万感の思いを込めて語りかけた。(中略)「私は、皆さんが、宿命に怯まず、絶望に負けず、自分自身に打ち勝ち、ここに集われたことをよく知っております。皆さんこそ、人生の偉大なる勝利者です。これからも、さらに、強く、強く、強く、生きて、生きて、生き抜いてください。このなかには、公害による病をかかえた方もいらっしゃるでしょう。しかし、それに負けずに、強く生き抜いていくこと自体が、人びとの希望となり、仏法の力の証明になります。苦しみをかみしめてきた皆さんには、幸福になる権力がある。皆さんの手で社会を変えていくんです。さあ、大宇宙に遍満する魔性を、人間の生命の魔性を打ち破るために!」「はい!」メンバーの元気な声が返ってきた。「では、皆さんの大健闘と大勝利を祝して、万歳三唱をしましょう!」皆、胸を張り、晴れやかに叫びながら、振り上げるようにあげた。「万歳!万歳!万歳!」誇らかな声が、霧島の空高くこだました。(中略)その後も伸一は、水俣の同志への激励を、折りあるごとに続けていった。(中略)公害のは、公害を垂れ流したが非を、多額の補償金や賠償金を出したとしても、決して、それで終わるというものではない。公害病患者の苦しみは続くのだ。だからこそ公害に泣いた人びとが、生きる勇気を、未来への希望を、呼び覚ましていくことが、何よりも大切になる。また、人間の励ましのスクラムが必要になる。さらに、公害の根本的な解決のためには、現代文明の在り方を根源的に問い、新たなる人間の哲学を打ち立てなければならない。そこに、創価学会の果たすべき役割がある。(「蘇生」の章、45~52ページ)

「創価大学」の章

1971年(昭和46年)4月2日、東京・八王子に創価大学が開学。山本伸一は、牧口・戸田両会長の大学設立構想を受け継ぎ、その実現に全生命を注いできた。しかし、大学の自主性を尊重し、開学式も、入学式も出席を見送る。創立者の伸一は、5月、創大生の代表等に、”学生が主体者となって全ての問題に取り組んでいってほしい”と語る。1期生たちは、創立者と同じ責任感で、大学建設に奮闘していく。当初、教員の伸一の来学を歓迎しないがあった。学生たちは自分たちが創立者を呼ほうと、大学祭として「創大祭」を開催し、訪問が実現。さらに、翌年7月、寮生の「滝山祭」にも伸一は出席する。72年(同47年)秋、理事会は、学費値上げの改革案を示す。だが、その進めて方は、創立者が示した”学生参加”の原則に反するものだと、学生たちは主張し、白紙撤回となる。その後、学生たちはの財政についてを、自主的に学費値上げを決議する。73年(同48年)の第3回入学式には、伸一が初めて出席。彼は、創価大学は、人類のため、無名の庶民の幸福のためにかいがくしたと述べ、「創造的人間であれ!」と訴える。同年7月、伸一は「滝山寮」の盆踊り大会で、学生の中に飛び込み、手の皮がむけるほどをたたいて、全身全霊で激励する。また、この年の「創大祭」の祝賀会では、学生のために就職の道を開こうと、招待した各企業のトップ一人一人に、自ら名刺を渡してあいさつする。75年(同50年)3月、第1回卒業式で彼は、生涯、創大で結んだ魂の絆を忘れるなと励ましを送る。伸一が命を削る思いで育んだ創大出身者から、世界各国で社会に貢献する多くのリーダーが誕生していく。

〈1973年(昭和48年)秋に行われた「創大祭」で、各企業の代表や報道関係者らを招き、祝賀会が行われた。山本伸一は来賓のなかに飛び込むように、あいさつに回った〉

「創大祭は私の命なんです」

一は、名刺を交換するたびに、こう言って、深々と頭を下げた。「私がでございます。大変にお世話になっております。来年は、一期生の就職活動が始まります。初めてのことですので、ご指導、ご尽力を賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。(中略)彼はであった。”伝統のある他の大学に進学していれば、就職も有利であり、多くの学生が、希望通りの企業に就職できるにちがいない。それを、あえて、苦労を承知で、私のした新設校の創価大学に来てくれたのだ。だから、自分が直接、各企業の代表と会い、誠心誠意、創大生のことをお願いしよう。それが創立者である私の義務だ”伸一は、そう深くに決めていたのである。(中略)”七百人の来賓全員とお会いしよう”と、彼は決意していた。動き、語るの顔には、いつの間にか、汗が噴き出していた。”そこまでやるのか”と、人は思うかもしれない。しかし、その行動なくして”開道”はない。道を開くには、まず自らの意識を開くことだ。彼は、ある来賓には、こう尋ねた。「『創大祭』をご覧になった、率直な感想はいかがですか」来賓は語った。「今、どの大学も、学園祭は、面白ければなんでもよいという風潮が強くなっています。しかし、『創大祭』は違いました。真面目に研究や調査に取り組み、自分たちの主張を真正面からぶつけている企画が実に多い。また、社会正義に燃える、学生らしい心意気があふれています。卒業生が社会に出るのが楽しみです」「ありがたいお話です。光栄です。学生たちに伝えます。創大生は、私の命なんです。皆、純粋ですし、限りない可能性をもっています。今後とも、お力添えください」(「創価大学」の章、155~157ページ)

〈創価大学の硬式野球部は、開学の年にスタート。恵まれたとはいえない中で奮闘する部員たちに、山本伸一は陰に陽に激励を重ねた。1975年(昭和50年)5月には、教職員らの親善試合に野球部員を招き、一緒に観戦しながら語り合った〉

心で勝て 次に技で勝て

(山本伸一=編集部注)は、期待を込めてに言った。「『さすが、創大野球部だ。すがすがしい』といわれるチームになっていくんだよ。創価大学も、野球部も、まだ草創期であり、苦労も多いかもしれない。しかし、その苦労が大事なんだ」(中略)野球部員が尋ねた。「試合の流れが一方的になり、追い込まれてしまった場合は、どうしたらいいでしょうか」「ピンチになった時には、みんなで集まって、心機一転して頑張っていくことだよ。これは、野球の試合でも、人生でも一緒です。戦いで負ける時というのは、相手に負ける前に自分に負けてしまっているものだ。プレッシャーや状況に負けてはいけない。その時こそ、心を一新し、ますます闘志を燃え上がらせていくんだ」試合が一段落すると、伸一は言った。「一緒に練習しよう。ぼくがをするよ」野球部員は、伸一がノックするボールを懸命に追った。体当たりで白球に食らいついた。「うまいね!」「大したもんだ!」伸一は、彼らがボールを補るたびに、声をかけていった。野球部員が受け止めたのは、創立者の期待と、真心であったのかもしれない。白球を追いながら、目を熱く潤ませる部員もいた。(中略)創大野球部は、数多くのリーグ優勝を飾り、全国大会でも、好成績を収めるまでになる。また、プロ野球選手も輩出している。後年、伸一は、野球部の勝利と栄光を願い、次のような指針を贈っている。「心で勝て 次に技で勝て 故に練習は実戦 実戦は練習」創立者とともに、創大の”人間野球”の伝統が築かれていったのである。(「創価大学」の章、150~152ページ)

「開花」の章

1971年(同46年)6月、山本伸一は、牧口初代会長の100年を記念する、先師の胸像の除幕式に臨む。創価の源流を開いた牧口をしのび、”先生を獄死させた権力の魔性の牙をもぎとり、民衆が喜びにあるれた社会を築いてまいります”と誓う。6月8日には、北海道へ。激励行の合間に、大沼で月の 撮影する。伸一の写真撮影は、「自然との対話」写真展に発展し、新たな民衆文化の波を起こすことになる。彼は、学会の発展は、そのまま地域の興隆につながらねばならないとなら考え、地域の人々との集いをもつことを提案。伸一が主席し、「鎌倉祭り」「三崎カーニバル」が開催される。それは地域に根ざした人間文化の「開花」の姿でもあった。同年の夏期講習会の折、大型の台風の影響を受け、近くでキャンプを行っていたボーイスカウトの世界大会の参加者をさせてほしいとの要請が入る。伸一の陣頭指揮で万全の支援を推進。感謝の言葉を述べるボーイスカウトの世話役に言う。「友情は人間性の証です。友情を広げ、人間と人間を結び合い、人類の幸福と平和の連帯をつくるのが、私どもの目的です」

【名場面編】
〈1971年(昭和40年)6月、山本伸一は北海道を訪問。大沼湖畔に立つ研修所の開所式の前夜、車で周囲を視察していると、東の山の向こうが白く光っているのが見えた〉

「今しかない」との思いで

の空を見た伸一は、思わず息をのんだ。雪の切れ間から、大きな、大きな、丸い月が壮麗に辺りを圧し、皓々と輝いていた。(中略)それは、大宇宙が織りなした、”美の絵巻”であった。”今だ!この瞬間しかない!”伸一は、車を止めてもらい。傍らにあったカメラに手を伸ばした。(中略)伸一は、後部座席の窓を開けると、シャッターを切った。彼は、「一瞬」の大切さというものを、身に染みて感じてきた。広宣流布を進めるうえでも、生きるうえでも、その瞬間、瞬間になすべき”勝負”が必ずある。伸一は、同志の激励にせよ、仕事にせよ、常に「今しかない」との思いで、奮闘に奮闘を重ねてきた。人生といっても、瞬間のである。ゆえに、「今」を勝つことが、完勝へとつながっていくのだ。(中略)後続車に乗っていた、聖教新聞の二十代前半の若いカメラマンが走り寄ってきて叫んだ。「運転手さん。車のエンジンを止めてください」それから、伸一に向かって言った。「先生!車の窓枠に両肘をつけて、を構えていただくと、揺れません」(中略)ファインダーをのぞくと、月光の反射で、湖面に金の帯が走っていた。風が吹き抜けるたびに、小さな波が起こり、金の光が明滅した。静かな湖畔に、伸一がシャッターを切る音が、断続的に響いた。彼は、さらに湖畔を移動し、フィルム数本分を撮影した。この写真が上手に撮れていたら、同志に贈りたいと思った。日夜、人びとの幸福のため、社会のために献身する同志たちと、大自然がもたらした束の間の美の感動を分かち合い、励ましを送りたかったのである。(「開花」の章、310~312ページ)

第15巻御書

御文

御文

いのち法華経ほけきょうにまいらせてほとけにはならせたもう 御書1299ページ、南無なむ御書)

通解

一切いっさいの仏は命を法華経にたてまつって仏に ったのである。

小説の場面から

〈学生部との懇談で、三島由紀夫の自決から、仏法で説く「帰命」に話が移ると、山本伸一は語った。〉「命はなんのために使うべきか。大聖人は、法華経のために身命を捧げるべきであると結論されている。(中略)法華経すなわち、正法のため、広宣流布のために身命を捧げるなかに、成仏とい絶対的幸福境涯を確立する道があり、一切衆生を救う直道があるからです。でも、身命を捧げるとは、ただということではない。広宣流布のために、全力で戦い抜くことです。そのなかで、熱原の三烈士や初代会長の牧口先生のように、することもあるかもしれない。しかし、広布のを果たすために、生きて生きて生き抜き、命ある限り、動き、語り抜くこともまた『帰命』です。むしろ、”自分は今日一日を、広布のために全力で戦い抜いたのか。妥協はないか。悔いはないか”と問いつつ、毎日、毎日を勝ち抜くなかに、『帰命』の姿があります」(中略)彼は言葉をついた。

命ある限り語り抜き取く

「私は青年時代、自身の決意を、こう日記につづりました。『革命は死なり。われらの死は、妙法への帰命なり』わが生涯を広布に捧げよう、戸田先生と生きようと、自ら決めた瞬間でした。(中略)以来、私は、どんな困難があろうとも、微動だにしません。実は、そこにこそ、自身の人間革命、絶対的幸福境涯への道がある」(「蘇生」の章、67~69ページ)

御文

過去かこ宿縁追しゅくえんおきた って今度こんど日蓮が弟子とたも うか(御書1338ページ、生死一大事血脈抄しょうじいちだいじけつみゃくしょう

通解

あなたは、過去の宿縁しゅくえんから今世こんぜで日蓮の弟子となられたのであろうか。

小説の場面から

〈1955年(昭和30年)8月、札幌での夏期指導の折、山本伸一は御書を排して同志の勇気を鼓舞した〉「ここは、大聖人様と共に戦う弟子の、深い宿縁について述べられた箇所ですが、今、その御精神を受け継ぎ、広宣流布に生きる私たちにも同じことがいえます。私たちが今、この時に生まれ合わせ、ここに集って活動に励んでいるのも、実は、過去世からの深い宿縁によるものなんです。決して偶然ではありません。私たちは、日蓮大聖人と、過去世で広宣流布をしていく約束をして生まれてきた。しかも、そのために、ある人はあえて貧乏の姿を現じ、ある人は、病気の悩みを抱えて出現してきたんです。そして、大闘争を展開する、待ち合わせの場所と時間が、昭和三十年八月の札幌だったんです。

久遠くおんの使命の自覚じかく

皆さんは、それぞれが貧乏や病の宿命を断ち切り、妙法の偉大さを証明するために、この法戦に集ってこられた。その強い自覚をもつならば、力がでないわけがありません。意気揚々と痛快に戦うではありませんか!」(中略)伸一の講義を聴くうちに、メンバーは皆、久遠の使命を自覚し、広宣流布の流れを決する歴史的な闘争に、今、自分が参加している喜びに包まれるのであった。誰もが勇み立った。その歓喜が、戦いの勢いを加速した。 (「蘇生」の章84~85ページ)

苦海くかい」を「仏土ぶつどの海」に

ここにフォーカス「蘇生」の章に、「水俣病」から立ち上がる同志の姿がにいます。「水俣病」は、熊本県水俣市で発生した公害病です。化学工場から海に垂れ流されたメチル水銀が魚介類に蓄積され、それを食べた人が中毒性の神経疾患を発症しました。山本伸一は、公害問題に対して論文を発表。さらに、研究者と会い、公害について学んでいきます。1972年(昭和47年)8月、池田先生は公害研究の第一人者・宇井純氏と公害問題へのアプローチなどを巡って、6時間にわたって語り合いました。対談の折、氏は、「被害者のとなって働いてみると、解決の智慧がわく。庶民と切られた、学問は終わりです」と語りました。この「庶民と共に」との信念は、先生と深くするものであり、学会の根本精神です。公害によって偏見にさらされ、人生を奪われた人の苦しみ、怒りは計り知れません。その「苦海」の中で、水俣の同志は友の幸福を願い、強く生き抜いたのです。池田先生は、和歌を詠んでいます。「水俣の/友に幸あれ/長寿あれ/仏土の海で/今世を楽しく」愛する郷土を「苦海」から「仏土の海」にーー水俣の友が刻んできた蘇生の軌跡は、後世に生きる勇気を送り続けるに違いありません。

第15巻解説

紙面講座池田主任副会長


第15巻「開花」の章に、「日蓮仏法の最もたる特徴は、『広宣流布の宗教』」(303ページ)であり、「立正安国の宗教」(304ページ)とあります。「立正」(正を立てる)とは、仏法の哲理を一人一人の胸中に打ち立てることです。「立正」は、仏法者の宗教的使命ともいえます。「安国」(国を安んずる)とは、「立正」の帰結として、社会の平和と繁栄を築いていくこと。いわば、仏法者の社会的使命が「安国」です。この「安国」の実現があってこそ、仏法者の宗教的使命は完結します。1970年(昭和45年)5月3日、山本伸一は本部総会で、広宣流布とは「妙法の大地に展開する大文化運動」(7ページ)と宣言します。「安国」の実現という使命を果たすため、学会は「文化という人間性の力をもって、社会を建設していく」(329ページ)運動を進めます。この「文化運動」の先頭に立ったのが、伸一でした。「蘇生」の章に、この頃から、彼がメンバーへの激励のために、和歌や句、詩を詠んで贈るように努めたことが記されています。伸一の詩は、「人びとに平和と幸福の大道を指し示す詩」(74ページ)であり、「仏法の眼をもって、自然と世界をとらえた詩」(同)でした。また、「開花」の章では、伸一が北海道で写真を撮影るす場面が描かれています。彼をカメラに向かわせる源泉は、「写真をもって、人間文化の旗手である同志を励まし、讃え、勇気づけたい」(315ページ)との思いでした。日本を代表する写真家・白川義員氏は「池田先生の作品には”一人でも多くの人を幸せにしたい”との先生の純粋な心がにじみ出ています」と述べています。この言葉に象徴されるように、先生の写真は「励ましの心」があれています。聖教新聞では、池田先生が撮影した写真と共に、先生の詩などを紹介する「四季の励まし」を掲載しています。それは、「『負けるな!強くあれ!私とともに進もう』との、同志への励ましのメッセージ」(328ページ)となっています。

提言の実現に向けて

学会が人間文化の創造への取り組みを本格的に開始した当時、イタイイタイ病や水俣病などの公害問題が、社会の大きな関心事となっていました。伸一は、深刻化する公害問題に関する論文を発表します。それは、公害を「文明というマクロな観点」(33ページ)から捉え、「公害をもたらした思想の、淵源にさかのぼり、その根本的な解決の方途を明確に示した点」(同)に特徴がありました。戸田先生はかつて、伸一にこう語っています。「人類の平和のためには、”具体的”な提案をし、その実現に向けて自ら先頭に立って”行動”することが大切である」(第30巻〈下〉「誓願」の章、237ページ)「たとえ、すぐに実現できなくとも、やがてそれが、”火種”となり、平和の炎が広がっていく、空理空論はどこまでも虚しいが、具体的な提案は、実現への”柱”となり、人類を守る”屋根”ともなっていく」(同)公害問題に関する論文の発表は、この恩師の指針の実現であり、池田先生が1983年(昭和58年)以降、1・26「SGIの日」を記念して毎年発表している提言も同様です。先生はこれまで、SGI提言で数々の平和構想を示してきました。その実現へ向けて、学会青年部が「SOKAグローバルアクション2030」を開始しました。10年後の2030年は、学会創立100周年であり、国連が掲げる開発目標の決勝点です。その年を目指し、①核兵器廃絶と反戦の潮流の拡大②アジアの友好③SDGs(持続可能な開発目標)の普及・推進ーーに取り組んでいきます。先日、発表されたSGI提言で、池田先生は、この青年部の平和運動に言及され、「青年たちの連帯がある限り、乗り越えられない壁など決してないと、私は固く信じてやまないのです」と、万感の期待をました。未来を開くのは青年です。「青年が立つ時、時代は新しき回転を開始」(73ページ)します。青年部の縦横無尽の活躍を、私たちは心から祈っていきたいとい思います。

師弟の精神の結晶

「創価大学」の章では、開学から1期生がするまでの同大学の歩みや、発展の軌跡が記されています。大学の正門と本部棟の正面には、牧口先生の筆による「創價大學」の文字が掲げられています。それは著書『創価教育学体系』で、創価大学・学園につながる構想を述べられているからです。先師の構想を継いだ戸田先生は、1950年(昭和25年)11月、自身の経営する会社が業務停止となっていた最悪の状況の中、伸一に大学設立の思いを語りました。伸一は、恩師の言葉を遺言として、深く心に刻みます。そして、71年(同46年)4月2日、創価大学は開学しました。この年は牧口先生の誕生100周年であり、この日は戸田先生の祥月命日です。まさに、同大学は「三代にわたる師弟の精神の結晶」(108ページ)にほかなりません。創立者の伸一は、大学の自主性を尊重し、開学式も、第1回入学式も、出席を見送ります。1期生とのの折には、「君たちみんなが、創価大学の創立者だ」(136ページ)と語ります。あえて大学を訪問しなかったのは、創立者と同じ思いで、学生が大学建設に必ず立ち上がると信じていたからです。そして、初の正式な来学となった「創大祭」において、「創立者の情愛があふれ、『学生中心の大学』という創価大学像(174ページ)が鮮明となったのです。伸一は第1回卒業式で、仏法の「霊山一会儼然未散」(霊山一会儼然として未だ散らず)との原理に触れ、「諸君は、生涯、『創価大学の一会儼然として未だ散らず』との心で生き抜くこと」(287ページ)を提案しました。その原点を胸に、今、世界各国で活躍する創大出身者がいます。明2021年、創価大学は開学50周年の節目を迎えます。現在、文部科学省の「スパーグローバル大学創生支援」事業に採択されており、SDGsの取り組みは、イギリスの教育専門誌などで高く評価されています。万年の平和を開くため、社会貢献の人材を輩出する、創価大学の使命は一段と大きくなっているのです。

名言集

ヒューマニズム

真のヒューマニズムは、人間と自然との調和、もっと端的に言えば、人間と、それを取り巻く環境としての自然とは、一体なのだという視点に立った”ヒューマニズム”であるべきである。(「蘇生」の章、27ページ)

変革の主役

社会を変え、時代を動かすのは民衆である。民衆が賢明になり、変革の主役となって立ち上がってこそ、の地殻変動が起こるのだ。(「蘇生」の章29ページ)

大学で学ぶ意義

学問や学歴は、本来、立身出世のための道具ではない、人びとの幸福に寄与するためであり、むしろ、大学で学ぶのは、大学に行けなかった人たちに奉仕し、貢献するためであるといってもよい。(「創価大学」の章、122ページ)

教育の原点

教育の原点は教師である。その人格こそが、教育という価値創造の根源である。ゆえに教師こそ、最大の教育環境となる。(「創価大学」の章、227ペー ジ)

あいさつ

あいさつは心のドアを開くノックである。さわやかで感じのよい、あいさつの姿には、人間性の勝利がある。(「開花」の章、337ページ)