世界広布の大道【新・人間革命 第14巻】

小説「新・人間革命」に学ぶ

今回の「世界広布の大道 小説『新・人間革命』に学ぶ」は第13巻の「基礎資料編」。各章のあらすじ等を紹介する。次回の「名場面編」は13日付、「御書編」は16日付、「解説編」は27日付の予定。

第14巻基礎資料

物語の時期
1969年(昭和44年)5月3日~1970年11月8日

「智勇」の章

1969年(昭和44年)5月3日の本部総会の席上、山本伸一は来年の5月3日までの目標として、750万世帯の達成を発表する。また、71年(同46年)の開学をめざす創価大学に、「人間教育の最高幹部学府たれ」など、三つのモットーを示す。さらに、過激化し、混迷する運動に言及。自由主義、共産主義を止揚する人間主義に立脚した、「第三の道」を開くように提案する。彼は、学生運動のに、常にを砕き続けてきた。月刊誌に次々と学生運動についての原稿を寄せ、大学紛争の原因は、教授らに学生への愛情と信頼がなかったところにあると述べ、学生には、暴力では真の社会改革はできないと協調。また、三権分立に教育権を加えた「四権分立」構想を提唱する。夏期講習の折り、男子学生部は、大学の自治を奪う「大学立法」に反対する集会を行う。伸一も参加し、自らデモの先頭に立つ。学生運動の「第三の道」を開くために、智勇兼備の学生部員が立ち上がり、10月19日、新学生同盟の大会が開かれる。これは後の学会の平和運動の的試みとなっていく。

〈1969年(昭和44年)、学生運動が過激化する中で、学生部の多くは、社会改革とはどうあるべきか、悩んでいた。そんな折、山本伸一は、学生部の会合で質問を受ける〉

広布に生きる革命児たれ

生の一人が尋ねた。「革命児として生き抜くとは、どういう生き方でしょうか」(中略)伸一は、メンバーの質問に答えて、語り始めた。「帝政ロシアの時代や、フランスのアンシャンレジーム(旧制度)の時代は、一握りの支配者が栄華を貪っている、単純な社会だった。しかし、今は、社会は高度に発達し、多元化しています。利害も複雑に絡み合っている。矛盾と不合理を感じながらも、の秩序の安定のうえに、繁栄を楽しむ人びとが圧倒的多数を占めています。そうした現代社会に、単純な暴力の図式はあてはまりません。全共闘が最大のテーマは、権力をもつ者のエゴを、さらに、自己の内なるエゴを、どう乗り越えるかということではないかと思う。つまり、求めるられているのは、権力魔性、の魔性に打ち勝つ、確かなる道です」伸一は断言するように語った。「人間のエゴイズム、魔性を打ち破り、人間性が勝利していくをつくるには、による以外にない。それは、根本的な迷いである『元品の無明』を断ち切る戦いだからです。大聖人は『元品の無明を切る利剣は此の法門に過ぎざるか』(御書九九一ページ)と仰せです。仏法によって、内なる『仏』の大生命を開きを変革する広宣流布なくして、解決はありません」(中略)伸一は続けた。「結論を言えば、一人の生命を変革する折伏に励むことこそが、漸進的で、最も確実な無血革命になるんです。さらに、生涯を広宣流布のために生き抜くことこそが、真の革命児になるんです。また、君自身が社会のなかで力をつけ、信頼を勝ち得ていくことが、折伏になります。私たちが、行おうとしていることは、未だ、誰人も成しえない、新しいなんです。それを成し遂げ、新しい時代を築くのが君たちのなんだ」(「智勇」の章、27~30ページ)

「使命」の章

1969年(昭和44年)、広布の緑野に、多彩な「使命」の花が、新たに咲き始める。当時、看護師の過剰から病院でのストライキが起こるなか、6月6日、女子部の看護師のメンバーによる白樺グループが結成される。それは、メンバーに新たな使命のを促し、限りない勇気と誇りを与えた。彼女たちは、「生命の世紀」のパイオニアとして、人間主義の看護をめざし、奮闘していく。7月、第6回全米総会を記念するパレードに、日本から富士鼓笛隊が出場。そこには、体の不調を克服して臨んだメンバーなど、乙女らの青春勝利のドラマがあった。また、56年(同31年)7月の鼓笛隊結成以来の歴史がつづられていく。アメリカでの公演の大成功を聞いた伸一は、心で「世界一の鼓笛隊万歳!」と叫び、「平和の天使」たちを称賛する。8月17日、夏期講習の折り、文芸部が結成される。伸一は、”「文は生命」であり、「文は魂」であり、また「文は境涯」である”と指導。新しきルネッサンス(文芸復興)の担い手が、陸続と育つことを願い、全魂を込めて激励する。

〈7月、富士鼓笛隊は、第6回全米総会を記念するアメリカでの”日米鼓笛隊パレード”に参加。”平和の天使”たちは、互いに励まし合いながら大きな成長を遂げてきた〉

自身を”青春学校”

笛隊は、音楽と団結の心を培い、自身を鍛え輝かせる”青春学校”ともいうべき役割を担ってきた。アメリカ公演に参加し、第三代の鼓笛隊部長になる小田野翔子も、鼓笛隊で学会の精神や人間の在り方を学んだ一人であった。(中略)入隊後、しばらくすると、数人の部員に、練習の日時や場所を連絡する係りになった。きちんと連絡をしても、来ない人もいた。しかし、をはたしのだから、あとは本人の問題であると、別に気にもとめなかった。(中略)だが、同じ係りのメンバーの取り組み方を見て、彼女は驚いた。連絡しても練習に来ない人がいると、そのことを真剣に悩んで唱題し、先輩に指導を受けたり、家まで訪ねて行ったりしているのだ。「なぜ、そこまでしなくてはんらないの?」とくびをかしげる小田原に、あるメンバーは言った。「だって、練習に通って上達し、出場できるようになれば、すばらしい青春の思い出になるわ。あんな感動はほかにはないんですもの。本人も、それを夢見て鼓笛隊に入ったはずだから、なんとしても、その夢を、一緒に実現してもらいたいのよ。だから私は、最後の最後まであkらめない。適当に妥協しても、誰も何も言わないかもしれないけど、それは、自分を裏切ることだわ」小田原は、自分の考え方を恥じた。(中略)また、小田原は、音楽の専門家でもない先輩たちが、「世界一の鼓笛隊」にしようと、に努力し続けている姿を目にするたび胸を熱くした。その心意気に感じて、彼女も、「世界一」を実現させるために、自分は何をすべきかを考えた。(中略)”自分がどこまでできるかわからないけれど、音大に行って、鼓笛隊のために役立てるようになりたい”人それぞれに使命がある。それそれが「私が立とう!」と、自己の使命を果たし抜くなかに、真の団結が創られるのだ。(「使命」の章、155~157ページ)

「烈風」の章

12月下旬、伸一は、関西指導へ。だが、急性気管支肺炎による高熱と咳が彼をさいなむ。医師も危ぶむ容体のなか、21日、和歌山での幹部会に出席。死力を振り絞ってメンバーを励まし、気迫あふれる指揮を執る。伸一の生命を賭しての激闘は、同志の闘魂を燃え上がらせ、勝利の歴史を開く。この頃、学会が、学会批判出版を妨害したとして、非難の集中砲火を浴びていた。学会のが著者を訪ね、臆測ではなく、事実に基づいたを要望したことなどが、言論弾圧とされたのである。やがて、国会を舞台にしての、学会と公明党、さらには伸一への攻撃となっていく。その背景には、学会の大発展、そして公明党の大躍進に危機感を抱いた、既成の宗教勢力、政治勢力の動きもあった。その中で学会は、1970年(45年)1月、当初の目標より早く、会員750万世帯を突破する。伸一は、打ち続く試練の「烈風」に向かい、社会のとなる理想的な学会をつくろうと心に期す。

【名場面編】
〈12月、関西指導に赴いた山本伸一は、高熱を押して和歌山へ。県幹部会で、全精魂を尽くして指導する〉

師の舞に勝利の誓い固く

一の話しは、二十四分に及んだ。式次第は、学会歌の合唱に移った。(中略)合唱が終わるや、会場のあちこちで「先生!」という叫びが起こった。「学会歌の指揮を執ってください!」ひときわ大きな声が響いた。伸一は笑顔で頷いた。その時である。喉に痰が絡み、彼は激しい咳に襲われた。口を押さえ、背中を震わせ、咳をした。五回、六回と続いた。一度、大きく深呼吸したが、まだ、おさまらなかった。苦しそうな咳が、さらに立て続けに、十回、二十回と響いた。演台のマイクが、その拾った。咳のあとには、ゼーゼーという、荒い呼吸が続いた。皆、心配そうな顔で、壇上の伸一に視線を注いだ。さっそうと立ち上がった。「大丈夫ですよ。それじゃあ、私が指揮を執りましょう!」歓声があたっか。「皆さんが喜んでくださるんでしたら、なんでもやります。私は、皆さんの会長だもの!」大拍手が広がった。(中略)山本伸一は、扇を手に舞い始めた。それは、天空を翔るがごとき、凛々しき舞であった。”病魔よ、来るなら来い!いかなる事態になろうが私闘う!”伸一は、大宇宙に遍満する「魔」に、決然と戦いを挑んでいた。(中略)和歌山の同志は、伸一の気迫の指導に、胸を熱くしていた。(中略)どの目にも潤んでいた。なかには、彼の体を気遣い、”先生!もうおやめください!”と叫びたい衝動をこらえる目で、この光景を生命に焼き付けながら、心に誓っていた。”私も戦います!断じて勝ちます!”そして、力の限り手拍子を打ち、声を張り上げて歌った。(「烈風」の章、218~223ページ)

「大河」の章

1970年(昭和45年)5月3日、伸一の会長就任10周年となる本部総会が開かれる。席上、彼は、広宣流布とは”流れそれ自体”であり、”妙法の大地に展開する文化運動”であると訴える。また、言論問題に触れ、学会を正しく理解してほしいとの感情が、出版を妨害されたとの誤解を招いてしまったことに謝意を表した。さらに、学会の形態について、紹介者と新入会者のつながりで、構成された「タテ線」から、「ヨコ線」へと移行することを発表する。この総会をもって学会は、「大河」の時代へと入り、新しき前進を開始した。伸一は21世紀を、若い世代の中核となる人材の育成に全力を傾ける。6月、高等部、中等部、少年・少女部のを開き、人材クループ「未来会」を結成する。9月、聖教新聞社の社屋が。11月8日には、第2回全国通信員大会が行われる。伸一は、聖教の幹部に”通信員と配達員こそ新聞の生命線”と、自身も皆の先頭に立って、言論戦を展開しようと決意する。

〈1970年(昭和45年)9月、聖教新聞社の新社屋が落成。山本伸一は館内を巡り、聖教新聞創刊の原点を振り返った〉

「創刊原点の精神を胸に」

一は、創刊当時に思いを馳せながら、傍らにいた、新聞社のたちに言った。(中略)「あの市ヶ谷のビルの狭い一室で、を作っていたころの苦労を忘れてはいけない。が整えば整うほど、創刊のころの精神を、常に確認し合っていくことが大事ではないだろうか」(中略)聖教新聞の創刊は、戸田がの失敗という窮地を脱し、第二代会長に就任する直前の、一九五一年(昭和二十六年)四月二十日である。戸田が、その着想を初めて伸一に語ったのは、の八月、戸田が経営の指揮をとっていた東光建設信用組合の経営が行き詰まり、業務停止となった時のことであった。戸田と伸一は、東京・虎ノ門の喫茶店で、信用組合の業務停止を知った、ある新聞社の記者と会った。その帰り道、戸田は、しみじみとした口調で語った「伸、というものは、社会では想像以上の力をもっている。・・・一つの新聞をもっているということは、実にすごい力をもつことだ。学会もいつか、なるべく早い機会に新聞をもたなければならんな。伸、よく考えておいてくれ」戸田が学会の理事長の辞任を発表したのは、聖教新聞発刊の着想を伸一に語った日の夜のことであった。(中略)年が明けた一九五一年(昭和二十六年)二月の寒い夜であった。戸田は、伸一に宣言した。「いよいよ新聞を出そう。私が社長で、君は副社長になれ。勇ましくやじゃないか!」(中略)何度となく、準備の打ち合わせがもたれた。新聞の名前をどうするかでも、さまざまな意見が出た。(中略)種々検討を重ね、結局、「聖教新聞」と決まった。そこには、大宇宙の根本法たる仏法を、世界に伝えゆく新聞をつくるのだという、戸田の心意気がみなぎっていていた。 (「大河」の章、359~362ページ)

第14巻御書

御文

御文

ほとけは文字にって衆生しゅじょうたまうなり 御書153ページ、蓮盛抄れんじょうしょう

通解

仏は文字によって衆生しゅじょうすくわれるのである。

小説の場面から

伸一は、会長に就任してからの、この十年余りの間、いつも、聖教新聞のことが頭から離れなかった。彼の一日は、妻も峯子とともに、配達員等の無事故を懸命に祈り、インクの匂いも新しい、届いたばかりの新聞に、くまなく目を通すことから始まるのである。伸一は、朝、聖教新聞を目にすると、すぐに翌日の紙面のことを考えた。”明日の一面のトップはなんだろうか””どんな記事があるのだろうか”….。戸田城聖が魂を注いでつくり上げた新聞を大発展させていくことが、自分の責任であり、義務であると、彼は決めていたのである。だから、率直に、聖教新聞についてアドバイスをすることもあった。また、編集部から寄稿の要請があれば、どんなに多忙ななかでも、懸命に原稿を書いた。(中略)

聖教の発展を心に期して

日蓮大聖人は、「仏は文字に依って衆生を度し給うなり」と仰せだが、仏法の哲理を、人びとに正しく伝え抜いていくうえでも、聖教新聞の担う役割は極めて大きい。さらに、現代は情報が氾濫しており、ともすれば、その情報の洪水に押し流されて、自らがものを考え、自身の価値観を確率できないでいることが少なくない。それだけに、情報をる哲学の”眼”をもつことが極めてになる。そのための新聞が、聖教新聞であるといってよい。(「大河」の章、365~366ページ)

御文

我並われならびにが弟子・諸難しょなん ありともうたがう心なくば自然じねん仏界ぶっかい にいたるべし、天てん加護かごなきことを疑はされ現世の安穏あんのんならざる事をなげかざれ、我が弟子に朝夕教ちょうせきおしえしかども・疑いを・をこしてみなすてけんつたなきもののならひは約束やくそくせし事を・まことの時はわするるなるべし(御書234ページ、開目抄かいもくしょう

通解

私の弟子は、多くの難があろうとも、うたがう心を起こさなければ、自然しぜん仏界ぶっかいいたるであろう。諸天しょてん加護かごがないからと、疑ってはならない。現世が安穏あんのんでないことをなげいてはならない。私の弟子に朝にゆうに教えてきたが、難にあって疑いを起こし、みな退転たいてんしてしまったようである。おろからmものならいは、約束やくそくしたことをまことの時には忘れるのである。

小説の場面から

〈1969年(昭和44年)12月、山本伸一はから三重の松阪会館へ。「開目抄」の一節を拝して指導した〉「『いざという時』にどうするか。実は、その時にこそ、日ごろの信心が表れるんです。(中略)日々、強く、黙々と、水の流れるように信心に励むことです。自分のを、磨き、鍛え抜いて、信心への絶対の確信を培っておくことです。それができてこそ、大事な時に、大きな力が出せるんです」一人ひとりの決意を促ように、伸一は語っていった。「では、『いざという時』とは、どういう時をいうのかーー。にとっては、自分や家族が大病にかかったとか、不慮の事故、事業の倒産に遭遇するなどといった、一大事の時がそうでしょう。これは、自分の過去遠遠劫からの宿業が出たことであり、

なんは生命をきたえる研磨剤けんまざい

まさに宿命転換のチャンスなんです。また、信心を反対されたりすることも、『いざという時』です。さらに、学会が法難を受けるなど、大変な事態に陥った時です。幸福を築くには、何があっても崩れることのない、金剛不壊のわが生命をつくり、輝かせていく以外にない。そして、難こそが、生命を磨き鍛える最高の研磨剤なんです。したがって、大難の時こそ、自身の宿命転換、境涯革命の絶好の時といえる。ゆえに、勇んで難に挑む、勇気がなければならない。臆病であっては絶対になりません」 (「烈風」の章228~229ページ)

学会の強さの源泉

ここにフォーカス1969年(昭和44年)から70年にかけて、学会は激しい非難にさらされました。学会批判書の著者に、事実に基づいた執筆を要望したことなどが、言論弾圧とされたのです。評論家の田原総一朗氏は、著書『創価学会』(毎日新聞出版)の中で、「『言論・出版問題』と呼ばれるようになるこの事件で、創価学会も大きなダメージを受け、間違いなく衰退すると誰もが確信した」「私もその一人である」と記しています。氏がそう予測したほど、学会攻撃は、すさまじいものがありました。しかし、その烈風を勝ち超え、学会はさらに発展を遂げていきます。その要因を探ろうと、「言論・出版問題」の後、氏は多くの婦人部員を取材します。すると皆、こう語ったと述べています。「私たち一人ひとりがとつながっている」。この「師弟の絆」こそ、学会の強さの源泉にほかなりません。「言論・出版問題」の渦中、伸一は若きを薫陶していきます。彼は記者会見で宣言します。「学会がどうなるか、二十一世紀を見てください。社会に大きく貢献する人材が必ず陸続と育つでしょう。その時が、私の勝負です!」21世紀の今、伸一がにかけて育成した若人は、各界の第一人者として活躍しています。その社会貢献の人材は、二陣、三陣と続き、世界を潤す大河となっています。

第14巻解説

紙面講座池田主任副会長


『新・人間革命』執筆開始より10周年となった2003年(平成15年)8月、池田先生は「起稿10周年」と題する随筆を発表しました。その中で、執筆に対する思いを記されています。「私の胸には、言論の闘争の決意がたきっている。広宣流布の大道は、今つくるしかないからだ」「『真実』を明確に書き残すことが、人びとのとなる」とれから15年が経過した昨年8月、先生は全30巻の執筆を終えられ、私たちに「世界広布の大道」をくださったのです。この随筆は、第14巻「大河」の章の連載中に書かれたものでした。同章は、1970年(昭和45年)5月3日、山本伸一の第3代会長就任10周年となる本部総会の場面から始まります。その1ヶ月前に行われた戸田先生の十三回忌法要で、伸一は、学会が750万世帯を達成したことを述べ、「広宣流布のは、遂に渓流より大河の流れとなりました」(287ページ)と、報告します。「広宣流布の波が広がり、人間主義に目覚めた民衆勢力が台頭し、時代の転換点を迎えた」(288ページ)のです。この転換期に起ったのが、「言論・出版問題」でした。学会批判書を書いた著者に対して、学会の幹部が事実に基づく執筆を要望したことを、言論弾圧として騒ぎ立てたのです。それを口実に、政党や勢力が、学会攻撃の集中砲火を浴びせました。「言論・出版問題」は、「の会長就任以来、初めての大試練」(293ページ)でした。しかし、伸一は「最も理想的な社会の模範となる創価学会をつくろう」(同ページ)という決意を一段と深くします。障魔の嵐を、「未来への新たな大発展の飛躍台」(同ページ)としていきました。試練に敢然と立ち向かう勇気を奮い起こす時、広布を阻む逆風を、追い風に転じることができます。「烈風に勇み立つ」精神で前進し続けてきたところに、「学会の強さがある」(253ページ)のです。

流れそれ自体

「言論・出版問題」の渦中から、21世紀の広布の未来を見据え、は布石を打っていきます。その一つが、時代に即応したです。70年5月3日の本部総会で、伸一は「広宣流布は、流れの到達点ではなく、流れそれ自体であり、生きた仏法の、社会への脈動」(298ページ)と語り、何か終着点があるかのような広宣流布観を一変させます。そして、「社会に信頼され、親しまれる学会」(同ページ)をモットーに前進することを呼び掛け、「地域社会と密接なつながりをもち、社会に大きく貢献していく意味」(305ページ)から、地域を基盤としたブロック組織へ移行することを発表します。それまで、学会の組織は、居住地と関係なく、した会員は紹介者と同じ組織としてきました。それに比べて、ブロック組織は、「人間関係を深めることの難しさ」(306ページ)が最大の課題でした。しかし、伸一は、現代社会が抱える人間の孤立化という問題を乗り越えるために、「学会員がになって、地域社会に、人間と人間の、強いのネットワークをつくり上げなければならない」(同ページ)と考えていました。ブロック組織への移行は、地域に開かれたの組織を築くためであり、社会の未来を開くためでもあったのです。この新しい段階に当たって、伸一が憂慮したのは、皆の一念の改革がなされていくか、ということでした。その「一念の改革」とは、「一人ひとりが『自分こそが学会の命運を、広宣流布を推進する主体者である』との、自覚に立つこと」(310ページ)であり、「会長の伸一と、同じ決意、同じ責任感に立つこと」(311ページ)です。「この主体者自覚」にこそ、「すべての活動の成否も、勝敗の決め手もある」(同ページ)からです。

ありのままを語る

烈風が吹き荒れる中、伸一が打ったもう一つの布石が人材育成ーー特に未来部への激励です。悪を許さなぬ、純粋な正義の心が失われてしまえば、「『大河の時代』は、濁流の時代」(293ページ)と化してしまいます。ゆえに、彼は、若い世代の中核となる人材育成に精魂を注ぎます。箱根の研修所で行われた、未来部の代表メンバーの研修会で、伸一はこの研修所が、学会の歴史の中で、どんな意味を持っているかを語ります。参加者の中には、小学生もいました。しかし、「広布後継の指導者になる使命をもった人」(322ページ)として、学会の真実の歴史を、ありのままに語っていきます。さらに、皆の質問に答え、人間としていかに生きるかを訴えます。「こちらが真剣に語ったことは、しっかり受け止められるはずである」(322ページ)と信じて、メンバーの胸中に成長の種子を蒔いてきました。その後も、の未来部へのは続きます。ある時には、「山本伸一なんだ。君が会長なんだ。私の分身なんだ。自分がいる限り大丈夫だと言えるようになって行きなさい」(325ページ)と万感の期待を語っています。メンバーは今、社会のさまざまな分野で活躍しています。その「弟子の勝利」(353ページ)は、伸一の「厳たる勝利の証」(同ページ)でもありました。池田先生は自らの手で未来部員を本物の人材へと、現在の世界広布新時代を開かれました。師匠の闘争を受け継ぎ、次の50年、100年の広布の未来を開く人材を育てていくのは、私たちです。「烈風」の章に、1969年(昭和44年)12月、伸一が高熱を押して出席した、和歌山の幹部会のことがつづられています。その50周年の佳節を記念する和歌山の大会が先日、50年前と同じ会場で開催されました。この大会で、未来部のメンバーが合唱を披露しました。大切なのは、当日へ向け、練習会を重ねる中で、家族や同志が未来部のメンバーに、和歌山広布史などを通して、信心の大切さ、師匠を持つ人生の素晴らしさを語っていったということです。明「前進・人材の年」は、「会長就任60周年」「学会創立90周年」と幾重にも意義を刻む年です。先日、先生は「(学会創立)100周年へ向かう10年は、にとって重大な分岐点となる10年である」と述べられました。師匠と同じ心で、次代の学会を担う人材をはぐくみ、万代にわたる広布の流れを開いていこうではありませんか。

名言集

宗教の生命

布教は、宗教の生命であります。布教なき宗教は、もはや”死せる宗教”であります。(「智勇」の章、8ページ)

生と歓喜と

とは、単に戦争がない状態をいうのではなく、人と人とが信頼に結ばれ、生の歓喜と、希望に満ちあふれていなければならない。(「使命」の章127ページ)

人間のため

「広宣流布」とは、文芸も、教育も、政治も、すべてを人間のためのものとして蘇らせる、生命復興の戦いなのである。(「使命」の章、160ページ)

強い決意と真剣さ

大ざっぱであったり、漏れがあるというのは、全責任を担って立つ真剣さの欠如といってよい。絶対に失敗は許されないとの強い決意をもち、真剣であれば、自ずから緻密になるものだ。(「烈風」の章、273ペー ジ)

前進の積み重ね

歴史的な壮挙を成し遂げるといっても、その一歩一歩は、決して華やかなものではない。むしろ地道な、誰にも気づかれない作業である場合がほとんどです。だが、その前進の積み重ねが、時代をしていく力なんです。(「大河」の章、342ページ)