世界広布の大道【新・人間革命 第13巻】

小説「新・人間革命」に学ぶ

今回の「世界広布の大道 小説『新・人間革命』に学ぶ」は第13巻の「基礎資料編」。各章のあらすじ等を紹介する。次回の「名場面編」は13日付、「御書編」は16日付、「解説編」は27日付の予定。

第13巻基礎資料

物語の時期
1968年(昭和43年)9月~1969年2月26日

「金の橋」の章

1968年(昭和43年)、山本伸一は、大学会の結成など学生部の育成に総力をあげるなか、9月8日に開催された学生部総会で、中国問題について提言を行う。当時、中華人民共和国は、7億を超す人口を抱えながら国連への代表権もなく、国際的に孤立していたた。日本もアメリカと共に敵視政策を取り、中ソの対立も深刻化していた。伸一は、地球民族主義の理念の上から、アジア、世界の平和を願い、「日中国交正常化提言」を発表した。松村謙三ら日中友好の先達は共感と賛同を寄せ、中国にも打電された。一方で脅迫電話が相次くなど、伸一は激しい非難と中傷にさらされる。70年(同45年)、訪中した松村は、周恩来総理と会見。総理、伸一を熱烈歓迎するとの意向を語る。しかし、国交回復は政治次元の問題であることから、伸一は、公明党に、日中の橋渡しを託す。72年(同47年)9月、日中共同声明の調印式が行われ、国交正常化が実現する。74年(同49年)、伸一は、中国を訪問。第2次訪中では、周総理と会見し、、日中友好の永遠の「金の橋」を断じて架けるとの決意を固める。

〈1968年(昭和43年)9月8日、日大講堂で開催された学生部総会の席上、山本伸一は、「日中国交正常化提言」を発表。国内外のメディアで取り上げられ、日中友好の取り組んできた人たちは称賛を惜しまなかった。

偉大な戦友に最敬礼!

かし、反響は、決して共感と賛同だけではなかった。伸一が予測していたように、彼は、激しい非難と中傷にさられなければならなかった。学会本部などには、嫌がらせや脅迫の電話、手紙が相次いだ。街宣車を繰り出しての、けたたましい”攻撃”もあった。(中略)提言は、伸一が、アジアの平和を願う仏法者としての信念のうえから、命を賭しても新しい世論を形成し、新しい時流とつくろうとの決意で、発表したものだ。だから、いかなる中傷も、非難も、迫害も、弾圧も、すべて覚悟のうえであった。伸一に恐れなど、全くなかった。だが、妻の峯子や子どもたちのことが、気にかかった。家族にも、何が起こっていもおかしくない状況であったからだ。”私は死を覚悟しての行動である。だから何があってもよい。しかし、妻や子どもたちまで、危険にさらされるのは、かわいそうだ。せめて、家族には無事であったもらいたい”伸一は、夜、帰宅し、妻や子どもたちの姿を見ると、今日も無事であったかと、ほっと胸を撫で下ろす毎日であった。ある時、家族を案じる彼に、峯子は微笑みながら言った。「私たちのことなら、大丈夫です。あなたは、正しいことをされたんですもの、心配なさらないでください。子どもたちにも、よく言い聞かせてあります。私たちも十分に注意はします。でも、何があっても驚きません。覚悟はできていますから」穏やかな口調であったが、その言葉には、凛とした強さがあった。伸一は、嬉しかった。勇気がわいてくるのを覚えた。それは、彼にとって最大の励ましであった。戦友ーーそんな言葉が伸一の頭をよぎった。彼も微笑を浮かべ、頷きながら言った。「ありがとう!偉大な戦友に最敬礼だ」(「金の橋」の章、75~76ページ)

「北斗」の章

1968年(昭和43年)9月、伸一は、北海道の旭川へ飛び、日本最北端の地・稚内へむかった。伸一は13日、旭川で、永遠の繁栄と幸福のために広布の大誓願に生き抜くことを訴える。翌14日、稚内を初訪問し、総支部指導会に出席。参加者の中には、生活苦等と必死に戦いながら、利尻島の広布を担ってきた夫婦もいた。伸一の訪問は、そうした同志の敢をたたえるためでもあった。彼は、「稚内が日本最初の広宣流布を成し遂げてもらいたい」など、5項目の指針を示す。最北端の厳しい条件の中で戦う学会員が、偉大な広布の勝利の実証を示せば、全同志の希望になると期待を寄せる。終了後、彼は夜空を見上げ、”北海道は、この北斗七星のように、広布の永遠なる希望の指標に”と思う。9月25日、伸一は本部幹部会で、創価学会の縮図である座談会の充実を呼びかけ、自ら座談会の推進本部長となることを表明。10月には静岡の富士宮市や、東京の北区の座談会へ。その波動は全国に広がり、民衆蘇生の人間広場である「座談会革命」が進んでいく。

〈9月、山本伸一は北海道・稚内へ。指導会の会場には、利尻島の広布を必死に切り開いてきた堀山夫妻の姿があった〉

無名無冠の大功労者

に同志の悩みに耳を傾け、素朴だが、誠心誠意、激励を続ける堀山夫妻は、みなから、「トッチャ」(とうちゃん)と呼ばれ、慕われていった。ある年、利尻島では不漁が続いた。生活は逼迫していった。一方、本土では大漁続きだという。仕方なく出稼ぎに行くことにした。(中略)気がかりは、同志のことだった。大漁であった。毎日、無我夢中で働いた。しかし、仕事を終え、ホッと一息つくと、二人で交わす言葉は、島に残っている同志のことばかりであった。生活苦にあえぐ人・・・。皆、入会して日も浅く、信心への強い確信があるとはいえなかった。(中略)日ごとに不安が募り、もはや、居ても立ってもいられなくなった。「トッチャ、帰ろう!島さ、帰るべ。いくら金を儲けてもしぁねぇべさ」二人は決めた。”おらだぢを頼りにしている同志がいる。どんなに生活が苦しくてもいい。広宣流布のため、同志のために、利尻で暮らそう。それが、おらだぢ夫婦の使命たと思う”夫妻は島に戻った。(中略)同志のために、島のためにーーそれが、堀山夫妻の生きがいであり、活動の原動力であった。苦しみに泣く人がいると聞けば、いつでも、どこへでも飛んでいった。一緒に涙を流し、抱き締めるようにして、励ましの言葉をかけた。また、悩みを克服した同志がいれば、手を取って喜び合った。二人は、貧しい平凡な庶民であった。しかし、島の人びとを守り抜こうとする気概と責任感は、誰よりも強かった。(中略)堀山夫妻の入会から十一年、夫妻をはじめ、草創の同志の命がけの苦闘によって、利尻島にも、地域広布の盤石な基盤ができ上がったのである。”華やかな表舞台に立つことはなくとも、黙々と献身してくださる無名無冠の同志こそが、学会の最大の功労者なのだ。ゆえに私は、その方々を守り、讃え、生涯を捧げよう”それこそが、山本伸一の決意であった。(「北斗」の章、143~146ページ)

「光城」の章

11月13日、伸一は奄美大島を訪れる。5年前の初訪問に比べて、奄美群島は1総支部から、1本部2総支部へと大発展していた。学会員への大々的な弾圧事件が起こる。村の有力者らが、躍進する公明党への危機感から、その支援団体である学会員を敵視し、村をあげて学会員の排斥が始まる。迫害はエスカレートし、学会員は村八分にされ、御本尊の没収、解雇や雇用の拒否、学会撲滅を訴えるデモにまで発展する。報告を派遣し、また、励ましのハガキを送り、奄美の同志を勇気づける。彼は、相手を大きな境涯で包み込み、粘り強く対話を重ね、社会貢献の実証を示していこうと望む。奄美大島会館を訪れた伸一は、尊き同志たちにの激闘を心からたたえる。そして、「奄美を日本の広宣流布の理想郷」にと呼びかけ、率先して、会館の近隣にも、友好の輪を広げるのであった。その後、奄美の同志は、伸一の指導通りに、社会貢献に取り組み、見事に広布の先駆けとなって、希望の「光城」と築いていく。

〈鹿児島の奄美大島の、ある村では、学会員た対する迫害が続き、1967年(昭和42年)6月には、村から名瀬市(現・奄美市)まで、学会排斥を叫ぶデモが行われた〉

立場などかなぐり捨てて

美総支部長の野川高志は、デモの前日、中学三年生の娘お輝子を呼んで言った。「明日、名瀬に行く。お前に見せたいものがあるから、一緒に来い!」当日、輝子は、何を見せてくれるのだろうと思いながら、父と一緒に名瀬に向かった。街の大通りにたっていると、長い車の列がやって来た。車からスピーカーで、「平和を乱す折伏を許すな!」などと、盛んに、がなり立てていた。輝子は、怖いかった。でも、それ以上に憤りを覚えた。「お父さん。どうしてなの!なぜ、学会がこんな目にあわなければいけないの!」父の高志は言った。「ともかく、この光景をよく胸に焼き付けておくんだ。父さんも、島の学会員さんも、島の人たちの幸福のために懸命に戦ってきた。正しいことをしてきた。でも、だからこそ、こんな仕打ちを受け、攻撃をされるんだ。正しいことだから、みんなが認めて、讃えてくれるわけじゃない。むしろ、大反対がある。お前は、この悔しさを決して忘れずに、学会の正義と真実を語り抜け!そして、いつか必ず、お前たちの手で、奄美を幸福の楽園にするんだ。広宣流布の理想郷にするんだ。それが、学会っ子の使命だぞ」列をなした車のなかから、大きな声が響いた。「村の平和を乱す宗教は出ていけ!」野川輝子は、ギュッと唇をかみしめ、その車の睨んだ。父親の高志が、彼女の肩を叩いてなだめた。「彼らはいつか、今日のことを、きっと恥じるようになるさ。また、そうしていかなくてはならない。そのために、お前たちが学会のすばらしさを証明し、みんなを最高の理解者、味方にしていくんだ。いいな!」(中略)その衝撃的な光景は、痛憤の思い出として、若い魂に焼き付けられていったのである。(「光城」の章、247~248ページ)

「楽土」の章

1969年(昭和44年)元日付の「聖教新聞」に、伸一の詩「建設の譜」が発表される。彼は、今こそ、全同士が勇猛果敢に立ち上がり、万代にわたる広宣流布の堅固な基盤を完成させなければならないと強く決意していた。2月15日、伸一は、新装なった沖縄本部での勤行会に出席。各人が自らの宿命転換を図り、国土の宿命転換をも成し遂げようと訴える。この頃、沖縄では、米軍基地が多いことから、アメリカ人の入会者が増えていた。兵士や、その家族らで構成されるマーシー地区からは、アメリカ本土やハワイなどで幹部として活躍する世界広布の人材も、多く輩出さえれていく。このほうもんで伸一は、アメリカ人メンバーや、わが子を不慮の事故で亡くした夫婦等の激励に全力を注ぐ。また、恩納村から乗った一行の船が流され、名護の同志と劇的な出会いを果たす。さらに、国頭から車に揺られ、沖縄本部に駆け付けたメンバーを抱きかかえるように励ます。3泊4日の沖縄指導であったが、一人一人に、楽土建設への不撓不屈の闘魂を燃え上がらせていった。

〈1969年(昭和44年)2月、山本伸一は沖縄指導へ。名護総支部婦人部長・岸山富士子を励ました。岸山と夫の幸徳はこれまで、打ち続く人生の試練を乗り越えてきた〉

「未来に羽ばかけ 君と僕」

妻は、来る日も、来る日も弘教に歩いた。(中略)鼻先でせせら笑われることも多かった。だが、毅然とした。富士子は、胸を張って言った。「私たちは、長男を病気で亡くし、さらに火事で、娘二人を失いました。皆さんにも、ご迷惑をおかけしました。でも、めげずに立ち上がりました。(中略)信心をしても、人生にはさまざまな試練があるものです。考えられないような、大きな悲しみにであうこともあると思います。それでも、どんなことがあろうが、負けずに生きていく力の源泉が信仰なんです。私たちは、必ず幸福になります。見ていて下さい」その叫びが、次第に、人びとの疑念を晴らしていった。(中略)富士子は思った。”人生は苦悩の連続かもしれない。でも、苦悩即不幸ではない。仏法は「煩悩即菩提」「生死即涅槃」と説くではないか。長男も、二人の娘も、私に与えるために生まれてきたのだ”彼女は、今は亡きわが子たちに誓った。”母さんは、自分の生き方を通して、信心の偉大さを証明してみせる。負けないよ。何があっても負けないからね。お前たちの死を、決して無駄にはしかいから・・・”(中略)夫妻は、一歩の引かずに頑張り通した。やがて、名護は総支部へと発展したのである。また、夫妻は、社会に迷惑をかけたのだから、その分、社会に尽くそうと、地域への貢献に力を注いだ。そして、後年、幸徳は地域の老人クラブや会長として、富士子は市の婦人会の会長や民生委員・児童委員などとして活躍し、信頼の輪を広げていくことになるのである。 (「楽土」の章、369~371ページ)

第13巻御書

御文

御文

御身御身おんみ佐渡さどの国をはせども心はの国にきた御書1316ページ、 千日尼御前御返事せんちにあまごぜんごへんじ

通解

あなたの身は佐渡さどの国にいらっしゃっても、心はこの国(身延)みのぶにきているのです。

小説の場面から

〈1968年(昭和43年)9月、山本伸一は北海道の稚内へ。最北端の地で奮闘する同志に励ましを送る〉 稚内地域は、日本の最北端にあり、幹部の指導の手も、あまり入らぬところから、普段は、取り残されたような寂しさを感じながら、活動しているメンバーも少なくなかった。実は、伸一の指導の眼目は、その心の雲を破ることにあったといってよい。(中略)伸一は、「御身は佐渡の国にをはせども心は此の国に来たれり」の御文から、こう訴えた。「佐渡という山海を遠く隔てた地にあっても、強い求道心の千日尼の一念は、大聖人と共にあった。地理的な距離と、精神の距離とは、全く別です。

師弟を結ぶのは”戦う心”

どんなに遠く離れた地にあっても、自分がいる限り、ここを絶対に広宣流布してみせる、人びとを幸福にしてみせると決意し、堂々と戦いゆく人は、心は大聖人と共にあります。また、それが、学会精神であり、本部に直結した信心といえます。反対に、東京に住んでいようが、あるいは、学会本部にいようが、革命せいしんを失い、戦いを忘れるならば、精神は最も遠く離れています。私も真剣です。広布に燃える稚内の皆さんとは、同じ心で、最も強く結ばれています。(「北斗」の章、149~150ページ)

御文

われそんずる国主等こくしゅら をば最初さいしょこれみちび かん(御書509ページ、 顕仏未来記けんぶつみらいき

通解

自分を迫害はくがいする国主等を最初に化導けどうしてあげよう。

小説の場面から

〈山本伸一は、学会に対する迫害が続く奄美大島へ向かう派遣幹部に、”魔”の本質について語る〉「人間は、魔の働きをすることもあれば、諸天善神の働きをすることもあります。また、一つの現実が魔となるのか、人間革命への飛躍台になるおかは、自分の一念の問題です。大弾圧が起こっても、御書の仰せ通りであると確信を深め、歓喜する人もいる。逆に、功徳を受け、生活が豊かになったことで、真剣に信心に励まなくなる人もいる。さら、戸田先生の時代から、師匠の厳愛の指導に怨嫉し、反逆していく者もいました。結局、外の世界のすべての現象は、魔が生ずる契機にすぎず、魔は己心に宿っているんです」(中略)

を人間革命への飛躍台に

伸一は、彼方を仰ぐように、目を細めて言った。(中略)「大聖人は『我を損ずる国主等をば最初に之を導かん』と仰せです。自分を迫害した権力者たちを、最初に救おうという、この御境涯に連なれるかどうかです。(中略)奄美の同志も、その考えに立って、人びとを大きく包容し、皆の幸福を願いながら、仲良く進んでいってほしいんです。奄美のこれからの戦いとは、信頼を勝ち取ることです。そのための武器は誠実な対話です。さらに、社会にあって一人ひとりが、粘り強く社会貢献の実証を示していくことです」(「光城」の章242~243ページ)

(「桂冠」の章、304~306ページ)

第一号の対談集

ここにフォーカス「光城」の章で、インドの独立運動の指導者マハトマ・ガンジーが語った、立派な運動が経る五つ段階が示されています。①無関心②嘲笑③非難④抑圧⑤尊敬です。ガンジーはさらに、抑圧から尊敬へと至る秘訣を「誠実」と述べています。同章では、1967年(昭和42年)に奄美大島の村で起こった、学会への迫害の歴史が記されています。村の有力者らによって、学会員は村八分にされ、学会撲滅を叫ぶデモまで行われています。公明党が躍進したことで、支援団体である学会を敵視したのです。山本伸一は、弾圧の要因について、”学会の真実を知らないがゆえの誤解”と結論し、「憎み合うことは、決して信仰者の本義ではありません。皆と仲良くすることが大切です」と伝言を託します。68年11月の奄美訪問では、「奄美を日本の広宣流布の理想郷に」と呼び掛けました。伸一の励ましを胸に、奄美の同志は、対話を重ね、地域貢献に取り組んできました。21世紀の今、奄美では信頼の輪が大きく広がっています。すべての居住世帯が、本紙を購読した集落も誕生しました。いかなる抑圧があろうと、誠実を貫いていくならば、必ず勝利も道は開かれるーー奄美の同志の足跡は、広布史に不滅の光彩を放っています。

第13巻解説

紙面講座池田主任副会長


間もなく迎える12月5日は、池田先生が第2次訪中(1974年)の折、周恩来総理と会見した日です。今年は45周年の佳節です。第13巻「金の橋」の章では、1968年(昭和43年)9月8日、山本伸一が学生部総会の席上、「日中国交正常化提言」を発表した経緯が詳細に記されています。伸一の日中友好に懸ける想いは、恩師・戸田先生の誓いでもありました。曇の井に 月こそ見んと 願いてしアジアの民に 日をぞ送らん」(11ページ)との和歌に象徴されるように、戸田先生はアジア、中でも中国に対する「ことのほか深い」(同ページ)思いがあったのです。また、提言発表には、日中の関係改善に心血注いできた人たちとの出会がありました。その一人が、事業家の高崎達之助です。伸一と高崎が語り合ったのは、63年(同38年)9月。高崎は中国の様子などを伝えると、伸一に「あなたには、その日中友好の力になってもらいたい」(26ページ)と率直に訴えます。それに対して、伸一は「必ず、やらせていただきます」(同ページ)と答える、日中友好の「金の橋」を架けることを決意します。当時の日本は、中国敵視政策をとっており、日中友好を口にすれば、激しい非難と中傷が起こることは容易に想像できました。それでも、伸一は恩師や日中友好に尽くす方々の思いを胸に、「私が、発言するしかない!(43ページ)と提言の発表を行いました。伸一の提言に、代議士の松村健三は、「百万の味方を得た思い」(81ページ)と述べ、「ぜひとも、あなたを周恩来総理に紹介したい」(82ページ)とまで語ります。高崎も松村も、伸一と40歳以上の年の差がありました。2人は、伸一に日中の将来にを託そうとしたのです。同章には、日中友好の永遠なる『金の橋』を築き上げるという大業は、決して、一代限りではできな」(44ページ)とあります。伸一が提言発表の場を、学生部総会としたのも、「学生部員のなかから、自分の提言の実現のために、生涯、走りぬいてくれる同志が必ず出るにちがいない」(同ページ)との確信があったからです。池田先生はこれまで、10度訪中し、青年交流、文化・教育交流を幅広く推進してこられました。両国間に築かれた平和の友誼の「金の橋」は揺るがぬものとなっています。池田先生には、中国の大学・学術機関から数多くの名誉学術称号が贈られています。また、これまで約40の大学などに、池田思想の研究機関が設置されてきました。さらに、創価大学は現在、60を超える中国の大学・学術機関と学術交流協定を締結しています。明年3月からは、日本全国30都市で、上海歌舞団が出演する舞劇「朱鷺」の民音公演が開催されます。東京富士美術館では、明秋に「シルクロード展(仮称)」が予定されています。また、1985年から中華全国青年連合会(全青連)と学会青年部は交流を重ねており、中華全国婦女連合会(婦女連)と創価学会の女性交流は今年で40周年となりました。池田先生が架けた日中の「金の橋」を万代へーー後継の青年部・未来部の皆さんは、その大きな使命と責任を担っているのです。

首里城に思いを馳せて

「楽土」の章では、山本伸一が1969年(昭和44年)2月に沖縄を訪問した場面が描かれています。この時、沖縄は本土復帰問題などで揺れていました。同章に「真の繁栄と平和を勝ち取ることができるかどうかは、最終的には、そこに住む人びとの、一念にこそかかっている」「楽土の建設は、主体である人間自身の建設にこそかかっている。(302ページ)とつづられていいます。伸一は、「会員一人ひとりの胸中深く、確固不動なる信心の杭を打ち込もう」(303ページ)と誓い、沖縄を訪れました。この訪問の折、芸術祭が行われ、演劇「青年尚巴志」が演じられました。総勢100人の出演者による1時間半にわたる舞台でした。尚巴志は15世紀に琉球を統一し、首里城を拡充した名将です。沖縄の同志は、「戦時中から今まで、沖縄の民衆がなめてきた辛酸は、尚巴志が生きた戦乱の時代と酷似している」(342ページ)と思い、この劇で沖縄の平和建設への決意を表現しました。あの悲惨な沖縄戦で焼失した首里城は、89年(平成元年)に復元工事が始まり、3年後の92年(同4年)、正殿などがさいけんされました。94年(同6年)2月の沖縄訪問の折、池田先生は首里城を視察しえちます。「楽土」の章の連載は、2002年(14年)10月からです。先生は首里城の姿を思い浮かべながら、執筆されたのではないでしょうか。首里城は、沖縄の歴史と文化、そして平和のシンボルです。その首里城の正殿などが先日、焼失しました。沖縄の皆さまの心中は、察するに余りあります。首里城の雄姿が再び見られることを願ってやみません。

事前の準備で決まる

「北斗」の章に、「牧口初代会長以来、学会は座談会とともにあった」(162ページ)とある通り、座談会は学会の伝統です。同章には、「座談会革命」について記されています。座談会を充実させる秘訣を尋ねられた伸一は、座談会は、弘教のための仏法対話の場であり、集ってきた同志に、勇気と確信を与える真剣勝負の指導の場であることを述べた上で、「中心者の気迫と力量が勝負となる」(164ページ)と強調します。そのはかにも、①新来者を連れてきた人に、心から尊敬の念をもって激励すること②座談会は当日だけでなく、結集も含め、事前の準備によって決まること③担当する幹部は、成功を真剣に御本尊に祈り、決意と確信をもって臨むこと④リーダーの社会性ある、常識豊かな振る舞いが大事であること⑤会場提供者に礼を尽くすことなどが、座談会を成功させるための要諦であると語ります。聖教新聞では、「世界ザダンカイ」などで、各国の座談会の模様を紹介しています。「ザダンカイ」は今、世界の共通語です。「創価学会といっても、それは、どこか遠くにあるのではない。わが地区の座談会のなかにこそ、学会の実像がある」(168ページ)とあるように、私たちは座談会の充実を図りながら、世界宗教としての誇りも高く、前進していこうではありませんか。

名言集

国交の本義

国交も、その本義は人間の交流にあり、民衆の交流にある。友情と信頼の絆で、人間同士が結ばれることだ。(「金の橋」の章、63ページ)

広布貢献の功徳

わが家を活動の拠点に提供し、広宣流布に貢献してきた功徳は、無量であり、無辺である。それは、大福運、大福徳となって、子々孫々までも照らしゆきにちがいない(「北斗」の章119ページ)

女性の世紀

女性の幸福なくして、人類の平和はない。女性が輝けば、家庭も、地域も、社会も輝く。ゆえに二十世紀は、女性が主役となる「女性の世紀」に、しなくてはならない。(「北斗」の章、160ページ)

境涯革命の証

皆が仲よく団結しているということは、それ自体が、各人の境涯革命、人間革命の証なんです。(「光城」の章、273ペー ジ)

誰にも負けない力

人材には、力がなくてはならない。心根は、清く、美しくとも、力がないというのでは、民衆の幸福、平和を築くことはできない。だから、何か一つでよい。これだけは誰にも負けないというものをもつことが必要です。(「楽土」の章、349ページ)